画家が作品の制作過程を公開して、こと細かに解説するのはめずらしい。戦時中の1943年(昭和18)に独立美術協会Click!を脱退し、戦後は国画会の会員となった川口軌外Click!は、1951年(昭和26)の冬に一ノ坂上にある下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)のアトリエClick!を訪問した「美術手帖」の記者に、描きはじめのクロッキーから完成したタブローまで、実際の画面を見せながら細かく解説している。
 描かれたモチーフは、同年8月に江ノ島海岸へ海水浴にきていた人々、つまり海辺の群像をクロッキー風のスケッチとして記録したものがベースになっている。当時の川口軌外は、キュビズムから発展した独自の構成表現(アブストラクション)へと進んでおり、描画の手法も使い勝手がめんどうな油絵の具から、制作リードタイムが短くてすむグワッシュ(不透明水彩)を多用するようになっていた。また、タイトルにも具体的なネームはいっさいつけず、ただ単に『作品』とだけ呼ぶケースがこの時期に急増している。
 川口は、グワッシュを好んで使うようになった理由を、次のように説明している。1952年(昭和27)発行の「美術手帖」2月号・No.53(美術出版社)に掲載された、川口軌外「作品―質問に答えて―」から引用してみよう。
  
 グワッシュは水彩と同じ様に水でといて使用するので、大変乾燥が早いんです。従って、油絵よりずっと短時日に絵のマチエール(絵の具のつき具合の効果)がたやすく出来るということ、もう一つはグワッシュは非常に色が鮮明で強く、しかも不変色です。油絵ですと、色の上に色を重ねたい時には、長いこと下の色が乾くのを待たなければならない。長期間の制作中、ずっと最初からの感動を持ちつづけることは中々むずかしいことです。その点、グワッシュだと好都合です。色の上へすぐ色を重ねても混濁しませんし、しかも下の色を完全に隠します。私のこの絵もとりかかってから二日で出来上りました。これが油絵だったらどうしても数十日かかってしまいます。
  
 「この絵」とは、先の江ノ島海岸における群像のクロッキーからおこした、川口軌外『作品』(1951年)のことだ。東京画廊で開かれた個展に出品された『作品』だが、モノクロ写真で色味はわからないけれど、同時期に描かれた同じ表現のタブローを参照すると、おしなべて暗めの色調でブルー系やイエロー系、オレンジ系、ブラックなどの絵の具を用いた画面ではなかっただろうか。
 川口軌外が独立美術協会時代に描いた、有名な『花束』(1933年)や『少女と貝殻』(1934年)など油絵の特長を最大限に活かした、どこかシャガールを想起させるこってりとした作品に比べると、あまりにあっさりしすぎた画面に変貌していて、戦前からのファンはかなりの違和感をおぼえたのではないだろうか。また事実、そのような声がファンからも多く寄せられたものか、「グワッシュは僕の転換期なのです。去年から転換しようと思ってもとには戻らないけど、難しいですね。大体僕は始めから構成的な仕事をしていたから、僕としては自然なんですが……」と、川口は制作姿勢が以前とまったく変わっていないことを強調している。




 また、記者の質問に答えて、自身の制作姿勢を次のように語っている。
  
 ナチュールな(自然な)スケッチだけでは、私の場合、タブロー(絵画)にならないのです。タブローにするためにはデッサンの構成を、ナチュールから開放(ママ:解放)してしまいます。つまり、海水浴場のスケッチをもとにして、アトリエでデッサンし直してだんだん構成していきます。/ことに色彩の場合は色と色とのコントラストのために構成を変えていかねばならない、ものをとり去ったり加えたりします。従ってもとのスケッチからは遠ざかりますが、最後まで最初の画因はなくならない。而し他の場合この画因ということはナチュールからスケッチした場合もあり、また記憶の場合もあり、偶発の場合もあります、このときの自然からの感情を如何に描き表すかは最も大切なことで、どんなに偶発の場合であっても絵画のもつ真実を失ってはならない、それは形象のことではなく画の感じ、この感じこそ芸術と言えましょう。
  
 そして、画面の色彩は画家の個性によって決定され、自然の形象自体が解放されて構成されるのと同様に、色彩も色の明暗や対比、量感などすべて画家の研究成果であり、自由に変えられるのはなんら不自然ではないと結んでいる。



 では、実際にタブローが仕上がるまでの、制作プロセスを順ぐりに見てみよう。
 江ノ島海岸へ出かけ、スケッチブックに数多くのクロッキーを描いた群像の1枚。1枚に5~6分かかるが、制作上での貴重なメモになるといい、川口はボナールがよくこのようなメモ風のスケッチを多く描いていたと語っている。
 帰宅後に、アトリエで素描を再構成したもの。グワッシュのセピアを水でといてインクをつくり、ケント紙に事務用ペンでいきなり描いていく。素描の重要性を強調し、マチスやピカソが素晴らしいのは結局デッサン力の高さだと語っている。
 素描をもとに、6号のキャンバスに油絵の具でエチュード(習作)を描き、さらに構成を深めていく。さまざまなインスピレーションが生じて、左上や左下の三角形は全体の画面を引き締めるため、自然に構成されたものだという。人物のフォルムが、素描から大きく変化しているのがわかる。地色がイエロー系、人体がおもにオレンジ系、ブルー系やブラックが配色される。
 人体がますますフォルムを変え、のクロッキーからはかけ離れた画面になっている。グワッシュで描かれた画面は、油彩のエチュードに比べて密度が格段に増し、半日ほどで描き進められた制作途中のタブロー。
 あと1日を費やして完成したタブローで、川口軌外『作品』(1951年)。
 川口軌外は、当時の作品を20年前、つまり留学時代にフランスで買ったグワッシュを用いて描いていると語っている。チューブは腐り、中身が固まってしまったのを、いちいち細かく砕いてから水に溶いて使用していたようだ。それでも色味は昔のままの鮮やかさで、まったく変色はしていなかったらしい。
 戦時中、統制で油絵の具が容易に入手できなくなり、川口軌外は留学中に購入しておいた20年前のグワッシュを取りだして、少しずつ研究を重ねていたのかもしれない。その成果が、戦後になって一気に表出したものだろうか。
 
 
 
 グワッシュは固まるのが早いので、戦後間もない時期という事情もあったろうが、当時は画材店でも扱っているところが少なかった。せっかく輸入しても、店頭へ並べたまま中身が固まってしまい、売り物にならなくなるリスクを避けたせいなのだろう。

◆写真上:川口軌外邸の応接間で、左手の壁に『花束』(1933年)が見えている。
◆写真中上は、独立美術協会時代に制作された1933年(昭和8)の『花束』()と1934年(昭和9)の『少女と貝殻』()。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目1995番地の川口軌外アトリエ。「火保図」はここでも、川口邸を「川田」邸と誤採取している。は、川口軌外アトリエの現状。
◆写真中下は、川口軌外のパレットとルフラン製およびレンブラン製の絵筆。は、大正の初めごろ文房堂で購入し使いつづけていた絵の具箱。絵の具は国産は使わず、すべてルフラン製などのフランス産。は、グワッシュで制作中の川口軌外。30度ほどの角度がつけられた、グワッシュ専用の手製イーゼルを用いている。
◆写真下:1951年(昭和26)制作の『作品(江ノ島海岸)』が、タブローになるまでの制作プロセス右下は、1954年(昭和29)ごろに制作された『作品』。