1924年(大正13)2月21日に、パトロンのひとりだった成蹊学園Click!中村春二Click!が死去したあと、中村彝Click!から中村春二にあてた手紙類は、息子の中村秋一Click!の手もとに残り保管された。その書簡類の中には、1916年(大正5)にアトリエを建てる候補地を物色する、中村彝の様子が記録されている。だが、中村彝がアトリエの候補地に挙げていた中に、道灌山(佐竹ノ原)や大崎、渋谷、中野の敷地はあるが、同年の春先まで候補地の中に下落合が含まれていない。
 1916年(大正5)という年は、中村彝にとっては最悪の年明けとなった。1月15日に新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻が立ち合いのもと、相馬俊子Click!との最後の話し合いを終え(このあと二度と逢えなかった)、彝は俊子に真正面からフラれてしまった。同年春に書かれた手紙の多く、ことに当事者である相馬夫妻をはじめ、岡田虎二郎Click!中原悌二郎Click!洲崎義郎Click!伊藤隆三郎Click!などにあてた手紙類には、文句やグチ、相馬夫妻の「陰謀説」、怒り、嘆きなどが次々と綴られていく。
 だが、成蹊学園の中村春二と今村銀行の今村繁三Click!に対しては、いつもどおりの近況を報告する手紙を出しつづけている。その中に、失恋から立ち直り気分転換をはかるためか、盛んにアトリエ建設の話題が登場してくる。以下、中村秋一の手もとに残された「廿八日」とだけ書かれている書簡で、年月が記載されていないが、1916年(大正5)2月28日付けと推定できる中村春二あての手紙から引用してみよう。出典は、1943年(昭和18)8月に発行された「新美術」25号に所収の、中村秋一『中村彝の手紙(三)』より。
  
 画室の方は地所の点ですつかり長びいて終ひました。日暮里近傍は地代が高くて駄目です。渡辺治右衛門(佐竹の原)のいゝ地所がありましたが、十年足らずの間に地代の弐拾円も払はなければならぬ様になる仕末(ママ:始末)では、迚も私共の手には負へませんからね、私は断念仕しました。そして日暮里本行寺を中心にする事を止して、もつと自由に広く、気持ちのいゝ郊外閑静な所、地代の安い所を探さうと思つて居ります。この間の芝の会合の時、今村さんが「大崎にいゝ所があるが」と仰つて居りましたから、こん度、病気が癒つたら一度御訪ねして伺つて見様かと思つて居ります。(あの当時は本行寺のことばかり思つて居たので、私はロクに耳に入れませんでしたが) そして若しそこがいけなす様でも、渋谷と中野に可なりいゝ候補地がありますから、今度は直ぐに決まる事と思ひます。先づ右は見舞のお礼旁々御報まで。/曾宮君に御託し下さつた金子五拾円は確かに受取りました。何時も御手数を煩はしてほんとに相済みません。さよなら。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、2月以前に書かれた同年1月31日付けの伊藤隆三郎あての手紙には、「来月の末には(未だ地所が未定ですが、大抵道灌山下の佐竹原になるでせう)画室が出来るかも知れません」と書かれているので、日暮里の近辺にとどまらず、市街地を離れた東京の郊外が候補地に挙がったのは、2月に入りしばらくたってからのことだったのがわかる。

 
 日暮里にこだわらなくなった理由として、上掲の2月28日付け中村春二にあてた手紙には、日暮里の本行寺Click!で行われていた岡田虎二郎Click!静坐会Click!に失望して、別に岡田に会うだけならどこか別の場所でも可能だからどこでもいいとし、「日暮里を離れて何処かもつと気持のいゝ処へ画室を建てようと思ひます」とも書いている。その有力な候補地として、大崎の今村繁三邸の敷地Click!の一画に、アトリエを建てる気持ちへ傾いているようだ。
 また、同年2月の中旬に中村彝は悪性の風邪にかかり、40度を超える熱が10日以上もつづいたせいで、よけいに空気の澄んだ閑静な郊外生活にあこがれはじめた可能性もある。さらに、3月9日から4月20日にかけて、医師の牧野三尹Click!が行っていた結核治療の沃土(ヨード)注射を受けに、向島まで36回も通っているので、病気が恢復したあかつきにはうるさい市街地を離れ、東京郊外に点在する別荘地の静謐な環境の中で、ゆっくりと静養したいという考えに転換したのかもしれない。ちなみに、ヨード治療に通った大川(隅田川)向こうの向島も、江戸期からの典型的な寮地(=別荘地)だった。
 大崎や渋谷、中野ではなく、アトリエの建設地を最終的に下落合464番地に決めて契約したのは、同年3月15日のことだった。中村彝は、それまで渋谷や中野の候補地を見てまわったのかどうかは不明だが、同年3月5日の日曜日に中村仲にあてた手紙では、「今週中に確定致す考に候」とあることから、少なくとも3月5日(日)から11日(土)の間に、下落合464番地の敷地に絞りこんだとみられる。
 ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、1916年(大正5)3月5日(日)から9日(木)まで、東京は連日快晴がつづく春めいた日和であり、10日(金)が曇り、11日(土)には一転して雪が降っているので、おそらく彝はいい陽気がつづく暖かな6日(月)から9日(木)のどこかで、日暮里駅から山手線に乗って目白駅で下車し、下落合の現地を訪れてアトリエ建設地の最終的な意思決定をしているのではないかとみられる。



 中村彝が、なぜ大崎の今村邸敷地や渋谷、中野などの候補地を外して、最終的に下落合に決めたのかはハッキリとはわからないが、敷地前の道路沿い、林泉園Click!の谷戸に沿って植えられた、おそらく現地を下見したときには蕾がふくらんでいたであろう、ソメイヨシノClick!のみごとな並木が気に入ったのかもしれない。相馬俊子Click!の好きな花がサクラだったので、いまだ彼女のことを諦めきれていなかったものだろうか。いまなら、さしずめ秒速5cmで散るサクラの花弁を見ながら、少し古いが山崎まさよしのClick!が頭の中で響いていたのではないだろうか。
 あるいは、敷地の北西側に建てられていた目白福音教会Click!の、メーヤー館Click!をはじめとする西洋館群Click!の風景に、画因的な興味を惹かれたものだろうか。または、以前から友人だった洋画家・近藤芳男Click!が、家族とともに下落合へすでにアトリエをかまえて住んでいたせいだろうか。はたまた、池袋の成蹊学園も近く、有力なパトロンのひとり中村春二の自宅にも近かったので、なにかと便利だと考えたものだろうか。
 アトリエ建設地が下落合に決定したあと、中村彝は後援者や友人たちの間を金策のため精力的に走りまわっている。建設工事は3月末に起工し、4月中旬には木組みをスタートして、7月には瓦を葺くまでに進捗している。途中、4月13日に友人らを連れて下落合を訪れ、工事の進み具合を確認している。そして、8月の初旬にアトリエが竣工すると、8月20日には初音町の下宿を引き払い、下落合へと引っ越してくる。その間、すでに下落合に家族とともに住んでいた近藤芳男の自殺や叔父の破産、『田中館博士の肖像』Click!の制作など、春から夏にかけて彝の周辺はあわただしかったはずだ。
 

 牧野三尹のヨード治療について、彝は信頼しきっていたようで、同年2月28日付けの中村春二への手紙では、「今後三週間の継続的注射をすれば、結核菌は必ず全滅すると申しますし、更に三週間薬用すれば肺の空洞が全部充実されるとの事です。私もこれだけは堅く信じてゐます」と、わざわざ治療の経緯までを書いている。だが、彝の病状は二度と快方に向かうことはなかった。

◆写真上:1988年(昭和63)2月9日に鈴木正治様Click!が撮影した、中村彝アトリエの復元工事。下落合のアトリエではなく、水戸の茨城県近代美術館にあるレプリカ復元。
◆写真中上は、1916年(大正5)ごろ谷中初音町の下宿で撮影された中村彝(右)と岡崎キイ(左)。下左は、中村春二死後の1924年(大正13)に制作された中村彝『中村春二像』。下右は、晩年には下落合へ住むことになる今村繁三。
◆写真中下は、1917年(大正6)ごろに撮影された池袋駅近くの成蹊中学校(成蹊学園)。は、中村春二が息子・収一に託しておカネをとどけつづけた経済支援ルート。は、2013年(平成25)2月6日の復元工事中に撮影した下落合の中村彝アトリエ。
◆写真下上左は、下落合への引っ越しと同年である1916年(大正5)に描かれた中村彝『落合のアトリエ』。上右は、1918年(大正7)ごろに制作されたアトリエのテラスを描いた中村彝『風景』。は、1956年(昭和31)4月19日の朝日新聞(夕刊)に掲載された、晩年には下落合2丁目707番地に住んだ今村繁三の訃報。