上落合(1丁目)186番地のアトリエで、村山知義Click!と暮らしていた村山籌子Click!は、無類の新しもの好きだったようだ。その新しもの好きは、単に最先端の舶来品である生活家電が輸入されたから、さっそく自分も試してみたい……というような流行を追いかけるのではなく、それらの機器を導入することによって、主婦の労働負荷がどれだけ軽減され、効率的な生活が送れるかの1点のみに関心があったようだ。
 自身も童話作家だった村山籌子は、家事の合い間に仕事をするというのではなく、あくまでも仕事が主体であり、その合い間に家事をこなすという生活が理想だったようだ。当時、欧米から輸入された最先端の生活家電は、ちょっとした小さな家なら建てられるほど高価な製品が多かった。こちらでも、そのような家電に給料の多くをつぎ込んでいた、早稲田大学教授・山本忠興Click!「電気の家」Click!をご紹介している。ガス管の敷設が遅れた下落合(現・中落合/中井含む)の西部、目白文化村Click!アビラ村Click!の屋敷では、電気レンジや電気オーブン、電気ストーブが導入されたが、それらは目の玉が飛び出るほど高かった。
 たとえば、米国ウェスチングハウス社製の電気オーブンや電気レンジは、大正後期の価格で650円もしている。大正の前期、中村彝アトリエClick!の建設費は600円であり、佐伯祐三Click!が1927年(昭和2)に日本からシベリア鉄道でパリへ出かけ、一家で当座の生活ができる金額のめやすが600円だった。当時の最先端技術を装備した輸入家電が、いかに高価だったかがうかがわれる。
 2001年(平成13)にJULA出版局から刊行された、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 とにかく母は無類の新し物好きであった。父に臨時収入があると、パン焼き器、電気掃除機、電気洗濯機、電気冷蔵庫など、すべて外国物で、日比谷のマツダデンキという輸入品専門店で買ってくるのであった。当時、それらはかなり高価なものであり、父は、「えっ、また買ったの? しょうがねえな、しょうがねえな」と、部屋の中を熊のように行ったり来たりして、心を落ち着けるのであった。このうち、掃除機はイギリス製で、まるで消防自動車のサイレンのようなけたたましい音をたてたので、さすがに母は隣近所をはばかり、窓を閉め切って使っていた。だが、これらは結局、生活の合理化のためであり、掃除機もホウキやハタキにくらべていかに能率的で衛生的であるかを、こんこんと講義するので、父は仕事机にもどり、天井を仰ぎ、タバコを矢鱈にふかすのであった。
  
 村山家には戦後に普及したテレビClick!がないだけで(ラジオはあったろう)、電気冷蔵庫に電気洗濯機など1960年代に生活の理想とされた「家電三種の神器」が、ほぼそろっていたことになる。この性格は母親(岡内寛)ゆずりだったようで、彼女の母親も米国から洋服を取り寄せ、乗馬や水泳、英語などを習う明治期の“ハイカラさん”だった。
 村山籌子は、幼い亜土にも早くから水泳を教えていたようで、出かけた先は「落合プール」Click!、すなわち二二六事件Click!の際に岡田首相Click!が隠れた佐々木久二邸Click!の、もともと敷地内にあった下落合(3丁目)1146番地の旧・邸内プールだった。もちろん水泳好きな村山籌子も、水着に着替えて息子といっしょに泳いでいたのだろう。同書から再び引用してみよう。
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 (前略)水泳の好きな母は、原さんを誘って、落合プールや明治神宮プールに出かけた。昭和十年頃、毎夏二週間ほど鵠沼海岸の画家のアトリエを借りた時も、新協劇団の俳優さんたちと一緒に原さんも来て、水泳の帰りに八百屋の店先で、西瓜を指でポンポンとはじいて、「ほらね、こういうにぶい音のほうが、甘いのよ」と自慢げに言ったのをおぼえている。
  
 「原さん」とは、中野重治Click!の夫人で女優の原泉Click!のことだ。原泉は、上落合48番地から上落合481番地、そして小滝橋近くの柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと、常に村山アトリエの近くに住んでいた。



 1933年(昭和8)2月21日、いつも穏やかな原泉が目を吊り上げ血相を変えて、庭先から村山アトリエへ飛びこんできた様子を、村山亜土はハッキリと記憶している。「あたし、先に行ってるからね」と半泣きのような顔でいい、原泉は駈け去った。築地署で小林多喜二Click!が虐殺された翌日、村山アトリエで見られた情景だ。
 村山籌子は、地下に潜行した共産党のレポ(連絡係)を、ひそかに引き受けていた。以前、佐多稲子Click!(窪川稲子)の『私の東京地図』(新日本文学会版)から、新宿通りに面した「近江屋」で、正月用品の買い物をタダでするエピソードClick!をご紹介したが、窪川稲子を誘いにきたふたり連れのうちのひとりとは、まちがいなく村山籌子だろう。その近江屋で、彼女は店員のレポとひそかに接触している。同書より、再び引用してみよう。
  
 年に一度だけ、私の誕生日に、母は新宿の中村屋で、一円のインドカリーを食べさせてくれた。当時、デパートの食堂のカレーは二十銭であった。そして、その隣に近江屋という小さな食料品屋があった。母はその店の前に立つと、いつもなにげないふうに奥へ目をやりながら、店頭のタラコを一腹つまみあげ、わざとゆっくり鼻に近づけて、クンクン匂いをかいだ。人目もあるのにと、私は恥ずかしかったが、母はすぐ、「ちょっと古いわね」とか言って、タラコをもどすと、指をハンカチでふきながら店をはなれ、真裏にあたる薄暗いコーヒー店に入った。すると、さっき店の奥に坐っていた若い男が、人目をはばかるようにひょいとあらわれ、母に手紙のようなものを渡して、たちまちいなくなった。母は何か秘密の連絡係のようなことをしていたらしい。
  



 このとき、おそらく夫が豊多摩刑務所Click!に収監されていた村山籌子の背後には、特高Click!の刑事がピタリと尾行をしていただろう。特高はコーヒー店には入らず、店の外で張りこんでいたのか、あるいは彼女とシンパらしい近江屋の店員とをあえて泳がせていたものか、ふたりは検挙されていない。
 ちなみに、淀橋区角筈1丁目12番地にあった近江屋の真裏の「薄暗いコーヒー店」とは、新宿ホテルをまわり西へ少し入った右手、新宿武蔵野館の真ん前に開店していた角筈1丁目1番地の喫茶店「エルテルヤ」だろう。
 村山亜土は、子どものころ「人一倍臆病」だったらしく、火事の半鐘を聞いただけで「アワアワ、ガタガタと震え出」していたらしい。そこで、村山籌子はときどき起きる火災に慣れさせるため、あるいは息子に度胸をつけさせるためか、上落合で頻繁に燃えた前田地域Click!(工場地区)の火災を、小高い原っぱにのぼって見物させている。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 そこはちょっと小高くなっていて、今のように高いビルがないので、見晴らしがよく、かなり離れた火事場がパノラマのようによく見えるのであった。とりわけ、上落合のゴム会社とか氷会社の大火事は、すぐ近くで、火の粉がパラパラと落ちて来て、二時間以上も燃えつづけた。母は、私がどんなにもがいても、手をゆるめず、じっと見物させた。そのうち、私は、ふきあげる焔に見とれて、いつのまにか震えが止まっているのであった。
  
 「ゴム会社」とは上落合136番地の堤康次郎Click!が経営していた東京護謨Click!の工場、「氷会社」とは上落合3番地の山手製氷の工場で、昭和初期ともに大火事で焼失している。特に山手製氷の火事は、村山アトリエからわずか200mほどのところで起きている。



 村山籌子は、落合地域とその周辺に住んでいた原泉をはじめ、中野鈴子Click!壺井栄Click!藤川栄子Click!などと親しく交流し、多彩なエピソードを残している。村山亜土も、それらのめずらしい情景を記憶しているようだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:村山和義・籌子夫妻のアトリエがあった、上落合186番地界隈(右手前)。
◆写真中上は、邸内にプールがあった昭和初期の佐々木久二邸。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる佐々木邸から“独立”して町内プールとなった「落合プール」。は、1929年(昭和4)ごろに撮影された村山籌子。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる食料品店「近江屋」と真裏の喫茶店「エルテルヤ」の位置関係。は、工事中の近江屋跡(手前)で奥が新宿中村屋。は、1970年(昭和45)に制作された村山知義『村山亜土像』。
◆写真下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる村山邸周辺の高台空地と前田地区。は、東京護謨工場跡に建つ落合水再生センター。は、月見岡八幡社の境内だった八幡公園の現状。境内の北東側に、眺めのいい高台の原っぱがあった。