下落合1731番地に住んだ武者小路実篤Click!だが、愛人である小説家の真杉静枝Click!は下落合に住む辻山春子Click!林芙美子Click!、上落合の大田洋子Click!らと誘いあっては下落合2108番地の吉屋信子邸Click!を訪問していた。そんな真杉静枝が、宇野千代Click!松井直樹Click!が編集する『スタイル』に、10銭でできる料理を紹介している。
 かなり以前、10銭でできる手製料理として、黒田初子Click!の「イクラのカナツペ」を紹介Click!しているが、真杉静枝の10銭手料理もそのシリーズのひとつだ。「私の十センお手製料理」と題された記事には、「十銭玉一つでこんなにおいしい御料理が食べられるとは――これこそ洒落た国策料理」というリードがついている。10銭の手料理が「国策料理」になるとは思えないが、「スタイル」という英語の雑誌名への風当たりが強くなっていた日米開戦の直前、せめてもの協力姿勢を見せた表現なのだろう。
 1940年(昭和15)前後の10銭は、現在の200~300円ほどの価値になるだろうか。100円よりは、少し価値が高そうに思う。母親が遊びにいくため、親父が小学生のときに毎日もらっていた50銭Click!銀貨の価値の、およそ4分の1から5分の1の価値まで下がっていただろう。今日でいうと、100円玉が2~3枚でできる料理というような感覚だろうか。さっそく、真杉静枝の手料理レシピを引用してみよう。
  
 栗飯  真杉静枝
 栗…五十匁・十セン・二人前/鰯…四匹・八セン・二人前/大根一本…二セン・二人前/栗飯には、鰹節のダシと味の素を入れて美味しく煮あげます。鰯を食べる直前に片栗粉をまぶして強火のラードでからりと、あげまして、生姜を入れた醤油でいただきます。/他に大根おろしを味の素とまぜて美味しくして出します。
  
 わたしとしては、栗飯にはできれば塩とみりんか酒を少し入れるだけにして炊き、鰹節などは入れず栗の甘さと香りだけにしてほしい。ましてや、「味の素」(グルタミン酸ナトリウム)などもってのほかで、雑味が増して舌が刺激的にピリピリするだけだ。
 大根おろしにも味の素など不要だし、ダシ入りが地域の味(真杉は福井出身)だというのなら、大根を半分(1銭分)だけ買い、あとは昆布と鰹節(1銭分)を煮詰めて、ちゃんとした本物のダシを混ぜてほしい。ひと手間多くかかるのかもしれないが、味の素の刺激味がしたらせっかくの料理が台なしだ。

 
 ちょっと余談だが、最近の納豆には「ダシ」と称する小袋がついているのだけれど、あれはいったいなんのつもりなのだろうか? カラシやワサビ(黒豆納豆)の添付はわかるが、納豆には高品質の生醤油が相場であり、せっかく大豆が発酵した納豆ならではの香ばしい風味が、ダシの雑味でうまさ半減だ。納豆が苦手な人向けの、ささやかな“おまけ”なのだろうか? 納豆の持つ力強い風味が美味なのであって、鰹節や昆布のダシなどまったく不要でお呼びでない。
 さて、こちらでも大磯Click!とのからみや佐々木孝丸Click!の記事などで何度かご紹介している、劇作家でエッセイストの高田保Click!だが、料理と呼べるのかどうかさえわからない、奇抜で面白い「手製料理」を紹介している。
  
 大根おろし  高田保
 大根の皮、剥いても、剥かないでもよろし、おろしにかけ、汁は絞つても絞らないでもよろし。醤油をほどよくかけて食します。/世に「大根おろし」とか云ふよし。小生の家代々つたはる妙味にて候。滋養もあり、かたがた十センあれば随分食べられる。食べれば食べる程、腹がヘル。
  
 なんだか、胃腸の消化剤(ジアスターゼ=アミラーゼ)を飲むような、あまり手間のかからない腕力だけの「料理」だが、真杉静枝の文章にもあるように当時は2銭で大根が1本買えたようだから、大根を5本摺りおろして食べることになる。
 さすが、一度にそれほど食べれば消化器系を傷めると思うのだが、大根おろし好きにはたまらないのだろう。高田保は、もともと胃腸が弱かったのかもしれない。わたしも、大根おろしにかけるのは生醤油のほかには考えられないが、身体を温めるのであれば薬研(七色唐辛子)をほんの少し、ふりかけてもいいのかもしれない。

 
 そもそも、この料理記事を企画したのであろう、宇野千代が紹介する手製料理はちょっとズルイ。10銭が条件の手製料理のはずだが、やたらお勝手の“余りもの”の材料を利用することになっている。そして、江戸東京地方だと風邪などの病気のとき以外はまず口にしない、雑炊(おじや)Click!のレシピを紹介している。
  
 ごもく雑炊  宇野千代
 ネギの青いところ(〇セン)/大根のシツポ(〇セン)/人参のシツポ(〇セン)/その他何でもお野菜の残りを小さく刻んで、オアゲ(三セン)/カツブシ(三セン)/昼間のお肉(何肉でもよし)の残つたの一キレ(〇セン)/ゴハンの残つたの(〇セン)/お肉もおあげも小さく刻んで、カツブシのおだしをたつぷりとり、ゴハンと野菜のミジンを一緒に入れ、ちよつと火にかけて、塩、酒(小サジ一パイ)醤油一滴で味をつけ、熱い中にフウフウ吹き乍らタベます。寒い冬の朝、夜、こんなオイシイものはありません。
  
 おそらくこの雑炊(おじや)を調理するには、実質20銭以上はかかっているのではないだろうか。そんなに都合よく大根や長ネギ、人参のシッポがあるはずなく、ましてや肉やご飯の残りもタイミングよくそろっていそうもないので、これらの費用に油揚げと鰹節の6銭を加えると、ゆうに20銭は超えていると思われる。(肉の種類にもよるが当時は現代とはちがい、少量の肉だけでも10銭は軽く超えただろう)


 そのほか、女優の水戸光子Click!が「魚のカレー粉まぶし」のレシピを紹介している。鰯でも秋刀魚でも、10銭以内で数尾手に入る魚を買ってきて、メリケン粉にカレー粉を混ぜたものをまぶし、フライパンで油炒めをして食べるというレシピだ。調味料は、塩とも醤油、ソースとも書いてないが、魚丸ごとでも、骨や内臓を抜いた魚の身だけでも香ばしく焼けば、これは現代でも通用しそうな、秋の食卓にのぼる家庭料理の1品だろう。

◆写真上:ほぼ毎日、刻んだ長ネギと生醤油で食べる発酵食の水戸納豆。余談だが、このごろ納豆を購入すると「ダシ」(カツオと昆布??)と称するおかしなものが付いている。納豆には質のいい本醸造の生醤油が最適であり、発酵した大豆のいい風味を根底から台なしにする「ダシ」の雑味などお呼びでない。
◆写真中上は、ときどき力みすぎて指までおろして痛い思いをする大根おろし。は、小説家の真杉静枝()と劇作家で随筆家の高田保()。
◆写真中下は、発熱する風邪には定番の雑炊(おじや)。下左は、1941年(昭和16)に発行された「スタイル」3月号の表紙。下右は、編集責任者の宇野千代。
◆写真下:「スタイル」に掲載された、5人の「私の十センお手製料理」記事。