1974年(昭和49)に講談社から出版された近藤富枝『本郷菊富士ホテル』を読んでいて、落合地域に去来した人物たちと重なることが多いことに気づいた。それらの人々の中には、落合地域やその周辺域に住まいをかまえたあと、菊富士ホテルへ滞在している人物もいれば、同ホテルへ滞在したのちに落合地域へと移り住んだ人物、落合地域の友人・知人宅へ頻繁に顔を見せていた人たち、そして落合地域から菊富士ホテルに住む知人宅へ通っていた人物など、実にさまざまだ。
 菊富士ホテルは、江戸期には本妙寺境内だった敷地の一部に建てられている。本妙寺といえば、1657年(明暦3)に発生した明暦大火(振袖火事)Click!の「火元」として有名だが、最新の研究では同寺に隣接していた老中・阿部伊予守の屋敷からの出火説が有力で、それを本妙寺で起きたとされる架空の「怪談話」にかぶせて責任を回避した(本妙寺の怪しいエピソードで火元をかぶってもらい、少なからぬ寄進を270年後の1920年代までつづけた)というのが、当の阿部家の子孫による証言や資料などで定説に近くなっている。巣鴨に移転した本妙寺も、戦後に何度か取材を受け記者会見まで開いて、自坊が「火元」ではないことを訴え、阿部家の証言を支持している。
 さて、菊富士ホテルの前身は、1896年(明治29)に本郷菊坂町16番地に建設された、和館2階建ての菊富士楼という学生下宿だった。つづいて、1907年(明治43)に本郷菊坂町82番地に、和館3階建ての菊富士楼「別館」が建設され、つづけて1914年(大正3)に同敷地へ和洋折衷の意匠で3階建ての「新館」が建てられ、この新館と別館が連結された建築を総称して、同年に「菊富士ホテル」と名づけられている。
 菊富士ホテルを経営していたのは、1895年(明治28)に岐阜県から東京へとやってきた羽根田幸之助・きくえ夫妻だった。先に同ホテルの新館を3階建てと書いたが、西側はバッケ(崖地)Click!になっていて地下の食堂部には南西向きの窓があり、3階の上階にはまるでペントハウスを思わせる「塔ノ部屋」と呼ばれた1室があったため、西側から眺めると実質5階建ての建築に見えたようだ。(なんだか一種住専で建築基準法をごまかし、5階建てを3階建てと強弁するマンション計画のようだがw) 当初は東京帝大に勤務する外国人や、訪日して滞在する外国人をターゲットにしていたが、大正期も半ばになると日本人の滞在者がほとんどになっている。
 早くから菊富士ホテルに住んでいた人物に、大杉栄と伊藤野枝Click!がいる。ふたりは、ちょうど神近市子Click!を含めた三角関係の日蔭茶屋事件が起きた、1916年(大正5)の秋に同ホテルへ入居した。関東大震災が発生したとき、大杉と伊藤は上落合のすぐ南にあたる淀橋町柏木371番地に住んでいたが、神近市子は1930年(昭和5)ごろから上落合469番地、つづけて上落合1丁目476番地に住んでいる。また、伊藤野枝の元夫である辻潤Click!もまた、1920年(大正9)ごろから上落合503番地の妹の家に寄宿しており、離婚したあとも大杉栄は伊藤野枝をともない、彼のもとを訪問していたとみられる。ちなみに、辻潤は1944年(昭和19)11月に、上落合1丁目308番地のアパート「静怡寮」Click!で死去し、大杉栄と伊藤野枝の遺体が焼かれた落合火葬場Click!で灰になっている。

 

 拙サイトでは安倍能成Click!との交遊や、『文楽首の研究』Click!(アトリエ社)などへ顔を出している谷崎潤一郎も、1918年(大正7)から翌年まで断続的に菊富士ホテルへ滞在している。また、同年の11月には、最愛の笠井彦乃Click!が肺結核で入院し、仲を引き裂かれた傷心の竹久夢二Click!が入居した。1915年(大正4)に、竣工したばかりの相馬孟胤邸Click!の西側、下落合370番地に夢二がアトリエをかまえていた時期、すなわち婦人之友社でAD(アートディレクター)を手がけていたころから、わずか3年後のことだ。下落合や雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)にいたころの夢二が恋の絶頂期だとすれば、菊富士ホテルに滞在していた2年間は、まさに彦乃を失った絶望で精神的にもどん底だっただろう。
 菊富士ホテルにおける夢二の様子を、前掲書から少し引用してみよう。
  
 夢二の菊富士生活は、一種のパニック状態ではじまったため、何もかも気に入らないことばかりだった。「何々県人何某」と入口に名札を出している部屋を「この田舎者奴が」と軽蔑の目で眺め、食堂へ出ればインド人や中国人や学生などと並んで食事をすることに神経を逆撫でされるような嫌悪を感じた。味噌汁まで「薄情な味噌汁だ」と罵らずにはいられない。もちろん画など一枚もかけはしなかった。/そこで朝はパンとコーヒーにサージン、夜はすき焼きなどを、不二彦とともに自室でとることにした。というのも彦乃の面影がちらつき、理不尽な別れ方をしたことへの悲しみが日夜夢二を責めさいなんで、食堂などへ出る心境にならなかったからである。
  
 夢二は、笠井彦乃が入院する病院で「村正」の短刀をふりまわして、彦乃の父親と取っ組み合いのケンカをし、病院の階段を転げ落ちたことになっているけれど、どこまでが創作でどこまでが事実なのかは不明だ。


 
 下落合の吉屋信子邸Click!林芙美子邸Click!などへ、頻繁に顔を見せていた宇野千代Click!もまた、1922年(大正11)に菊富士ホテルへ尾崎士郎とともに滞在している。このあと、ふたりはホテルを出て大森の馬込村Click!に家庭をもったが、7年後に宇野が「人に好かれ過ぎるというのが、唯一の欠点のような男でした」と、未練のあるらしい総括をして離婚している。
 このサイトでは、大磯とのからみで登場することが多い高田保Click!も、1923年(大正12)と1927年(昭和2)の二度にわたり滞在している。高田保は新館の2階に住み、ときおり本妙寺坂沿いに建っていた岡田三郎助Click!の女子美術学校や、ホテル北側に面した菊ノ湯の脱衣場を、宇野浩二とともに性能のいい軍用望遠鏡でのぞいていた。高田が望遠鏡をのぞいていると、女子美術学校からは鏡に太陽を反射させて彼の顔をねらう女子学生たちの“反撃”が、ときおり行われていたという。
 さて、下落合や長崎に住み1930年協会の前田寛治Click!の友人だった福本和夫Click!も、1926年(大正15)6月から12月までの半年間を菊富士ホテルですごしている。ちょうど、前田寛治が下落合1560番地のアトリエClick!で暮らしたあと、下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエに寄宿していたころと重なっている。そして、1926年(大正15)12月に、佐伯アトリエから目白通りの北側、すなわち長崎町大和田1942番地の家へ転居すると、なぜか玄関に「前田寛治」と並んで「福本和夫」の表札を堂々と掲げている。その後、特高Click!に逮捕されるきっかけとなったエピソードだが、前田寛治は長崎のアトリエで福本といっしょに住んでいたわけではなく、立ち寄り先のアジトのひとつとして、家を提供していたのだろう。同書より、再び引用してみよう。
  
 この年の秋、福本は党の国会請願運動に加わった嫌疑で本富士署に留置された。刑事によって福本の部屋が捜索されたが、このときその机の曳き出しに、七千円記入の預金帳が無造作に放りこまれてあり、立会いの菊富士ホテルの長男富士雄と刑事は顔を見合わせて驚いた。多分現在の一千万円ぐらいにも相当するだろう。このときは証拠不十分で、二、三日で釈放された。
  
 1930年(昭和5)11月になると、翌1931年(昭和6)にかけて宮本百合子(中條百合子)Click!湯浅芳子Click!が菊富士ホテルに滞在している。ふたりが別れたあとも、湯浅芳子は1932年(昭和7)から翌年にかけ、また1936年(昭和11)と頻繁に同ホテルを利用していた。宮本百合子は1934年(昭和9)に、上落合2丁目740番地に建っていた坂上の借家Click!へ転居してくるが、翌1935年(昭和10)5月に淀橋署に逮捕されている。釈放後に住んだのは、下落合のすぐ北側にあたる目白町3丁目3570番地の、彼女が獄中の宮本顕示にあてた手紙によれば「小さい、だがしっかりした家」だった。
 


 さて、1936年(昭和11)3月になると、菊富士ホテルに坂口安吾が転居してくる。同ホテルから、坂口は下落合4丁目1986番地の自宅Click!にいる矢田津世子Click!あてに、せっせと手紙を書いていた。矢田津世子Click!もまた、ときおり菊富士ホテルの彼の部屋へ顔を見せにくるのだけれど、彼女と「風博士」のエピソードは、また、別の物語……。

◆写真上:本妙寺坂から入った、本郷菊坂町82番地(現・本郷5丁目)の菊富士ホテル跡。
◆写真中上は、1914年(大正3)に竣工した和洋折衷の新館。中左は、1974年(昭和49)出版の近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)。中右は、菊富士ホテルの玄関(新館)。は、1924年(大正13)の市街地図にみる菊富士ホテルとその周辺。近藤富枝の著書では「佐藤高女」とされているが、佐藤高等女学校は女子美内の付属校なので女子美術学校そのもののことだ。大正末には、女子美の北に「工科学校」が採取されている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる菊富士ホテル。ちょうど坂口安吾がいたころで、本妙寺坂沿いには女子美術学校の校舎が見える。は、本妙寺坂の現状で右手の茶色いマンションが女子美跡。は、1916年(大正5)から翌年にかけて滞在した大杉栄()と、1918年(大正7)から息子とともに3年間滞在した竹久夢二()。
◆写真下は、1926年(大正15)に滞在した福本和夫()と、1930年(昭和5)から翌年にかけて滞在した中條百合子(宮本百合子/)。は、本妙寺坂から菊富士ホテル跡(正面)を眺めたところ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる菊富士ホテルの焼け跡。1944年(昭和19)3月にホテルは廃業し、すでに旭電化へ売却されていた。