大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象とした「貧乏線の調査」Click!では、自由学園高等科の女学生たちClick!が社会調査の方法論を学ぶために、高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた早稲田大学の教授・安部磯雄Click!に相談したことは前の記事でも書いた。その教えにより、彼女たちは詳細な質問カードを作成している。
 質問カードには、ひとつの世帯の家族構成や年齢・性別・職業に加え、それぞれの収入や同居人の有無、住宅の部屋数、畳敷きの部屋数、家賃などを訊ねる詳細なものだった。そして、集めたデータをもとに、先に安部教授との打ち合わせで決定していた、「貧乏線」以下の家庭が調査戸数の何%を占めるのかを算出している。
 「貧乏線」は、先にご紹介したようにロンドンの実業家C.ブースが考案したもので、住民ひとりが1ヶ月に必要とする生活費を割り出し、家族が増えるごとに最低の生活費の水準を設定していくやり方だった。高田町の調査では、1925年(大正14)時点での最低生活費を、住民ひとりにつき25円/月と算定している。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家族が増えるにしたがい1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を作成している。
 まず、女学生たちClick!は調査対象となる多種多様な住宅を、あらかじめ6調査区に分けた高田町内の各エリアから、事前に487戸をモデル家屋として抽出している。だが、当初は487戸=487世帯だと思っていた彼女たちは、1軒の家に複数の世帯が暮らす貧困家庭などがあることを知り、最終的には529世帯におよぶ調査となった。以下、そのときの調査の様子を、1925年(大正14)5月に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の「貧乏線の調査」より引用してみよう。
  
 先づ貧乏線といふことに就て安部先生指導の下に色々のことを考へました。さうしてその標準を、大人一人につき月廿五円、一人をます毎に十円を増加へること、但八歳以下七十歳以上の人は半人分五円とすることにして、家族数に収入を照し合はせ、以上の標準以下の分を貧窮圏内と見ることにしました。(中略) その時に四八七戸(略)の家を選び出しましたが、調べて見ると、五二九世帯あつてその中の唯九六世帯だけが、貧窮線以下の生活であることを知りました。中でも馬力といつてゐる運送者など、家は随分汚ないのですけれど、厩も自分のもので割に豊かな収入を持つてゐることなど、はじめての私共には案外に思はれました。/反対に普通の家に住んでゐても、家族の多い下級の勤人など、服装その他の体面もありますし、或は実際苦しい生計になつてゐるやうな所もあるのかも知れないと思ひました。併し後になつて、全高田町の戸別調査をした時にも、さう困つてゐるやうな所は見なかつたのでございます。
  
 この調査により、1925年(大正14)2月の時点で、高田町に住む人々の家内事情がかなり詳細に判明している。まず、489戸の抽出調査で529世帯の家族が暮らしていたのは先述したが、同世帯で暮らす総人口は2,150人で、1世帯あたり平均約4人の家族が生活していることになる。そのうち、20歳以下の家族は737人を数え、総人口のうちのおよそ34.38%が若年層だったことになる。20歳以下の若年層のうち、すでに独立して生活している者が70人、親が扶養している者が667人いた。


 529世帯のうち、特に飛びぬけて収入が多かった運送業の(おそらく)経営者宅36世帯を除き、493世帯における1ヶ月の総収入は30,247円70銭だった。なぜ、高収入の運送業者(馬力Click!)を除いたのかといえば、当時の山手線・目白駅Click!には学習院Click!椿坂Click!沿いに貨物駅Click!が併設されており、その周辺には東京各地へ荷を配送する運送業者が数多く集まるという、特殊な地域事情があったからだ。
 彼女たちが抽出した訪問住宅には、期せずして裕福な運送業者の家庭が数多く含まれており、それら例外的に高収入だった世帯を含めて平均値を計算してしまうと、高田町の一般家庭における生活水準の把握に、少なからず誤差が生じると判断したからだろう。運送業者の家庭を除いた、高田町の1世帯あたりの平均収入は61円35銭/月となり、調査対象の人口ひとりあたりの平均収入は15円8銭/月ということになる。ちなみに調査と同年、1925年(大正14)の東京市における大卒の初任給が50円前後、給与所得者(サラリーマン)の平均収入は61円前後なので、高田町はほぼ当時の平均生活に近い、いわゆる「中流」の住民が数多く住んでいた地域であることがうかがわれる。
 そして、家族の人数と収入金額を比べてみると、529世帯のうち「貧乏線」を割ってしまう家は95世帯で、全世帯の17.96%を占めていることがわかった。おそらく、この数値は同時期の東京市や他の区・町と比べてみても低いのではないかと思われる。529世帯のうち、持ち家に住んでいる家族は9世帯、借家に住む家族が520世帯だが、当時は借家に住むのが生活の常識だったので、持ち家がないからといって貧困とはまったく限らない。借家住まいの世帯では、1ヶ月の家賃総額が5,526円64銭、月にすると1世帯あたり平均家賃は10円63銭/月ということになる。つまり、1世帯(4人)の平均収入61円35銭/月の中で、家賃が占める割合は17%強だ。
 自由学園の女学生は、住環境についても具体的に調べているが、住宅の畳間(日本間)の数だけ調べ洋間は含めていない。当時の高田町は、和洋折衷の住宅も多かったとみられるが、「ひとりあたりの畳の枚数は何枚?」というような、昔ながらの調査感覚が残っていたものだろうか。あるいは、大正期なので畳部屋こそが寝室も兼ねた個人の居住空間そのもので、応接間や居間、食堂などに多い洋間は共有空間であって、除外するものだと捉えられていたのかもしれない。住民の中には、「答えたくない」と断ったケースや部屋数が不明の家庭もあったようで、回答数は482戸となっている。

 日本間の広さも確認しており、全820間の畳の総数は3,667枚、したがって住民ひとりあたりが使える日本間の占有率は約1.7畳ということになる。


 次に、調査対象となった529世帯の住民の職業調査も行っている。親に扶養されている、学生や生徒などを含む20歳以下の住民は除外し、なんらかの収入がある世帯主や妻、その子どもたちなど住民711人を対象に調べた結果だ。

 当時の高田町は、運送業や中小の工場が集まっていたせいか、職人や職工、運送業者の関係者がかなり目立つ。また、女性の仕事としては、川沿いに展開する染色業や製紙業に関連する仕事が多かったのだろう。
 さて、「貧乏線」の調査は、高等科の女学生たちが抽出した487戸(529世帯)の家々に限られてはいたにせよ、かなりプライベートで失礼なインタビューの内容が含まれており(「運送者など、家は随分汚ない」けれどすごくおカネ持ちだなどと、いいたい放題のレポートを書いた経緯もありw)、彼女たちは調査対象となった家庭の子どもたち全員を、学園をあげたパーティに招待している。これに対し、調査した家庭から357人の親子が、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園にやってきた。そのときの様子を、同書から引用してみよう。
  
 私共はまた調査をした週間の土曜日、午後一時から調査に行つたお家の子供さんたちを招待して、学校でお伽噺の会をしました。私共の願ひを聞き入れて、快く話して下さつたお礼のためでした。(中略) 先づ全校のお友達に三品づゝ福引の材料を持つて来て下さることをお願ひしましたら、絵本、毬、お手玉、まゝごと道具、お人形、飛行機、汽車、自転車などのおもちや、手帳、鉛筆、クレオンなど皆新しいものばかりで、一寸したおもちや店が開けさうでした。婦人之友社から頂いた沢山の子供之友をも加へて、公平に組み合はせ、包み紙に包んで四百点の贈物をつくりました。(中略) 次に横山さんと友田さんの童謡が二つばかりあつて、高崎能樹先生のお伽噺にうつりましたお話が本題に入つた頃には講堂は満員でございました。(中略) お噺は三人の王子といふ題で私たちにも面白うございました。福引は釣堀式にして渡しました。贈り物を釣り上げて出てくる子供に明治製菓会社から寄贈して下さつたビスケツトとカルミンを渡しました。
  


 彼女たちは、同書巻末の「調査の感想」でもしばしば触れているが、家が小さくて貧しそうな家庭ほど親切にいろいろ教えてくれ、大きな住宅の場合は“お高く”とまってほとんど答えてくれないか、または調査対象となる家族が姿を見せず、女中を介しての間接的な受け答えしかしてくれないと書いている。中には、勝手口からの訪問ではなく玄関から入ってきたと、ひどく怒られた女学生たちもいた。次回は、自由学園の全校生徒が参加した、高田町の全戸7,870戸を対象とする「衛生調査」について書いてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に開かれた、学園の設計者F.L.ライトClick!(中央)の送別会。写る生徒の何人かは、4年後の調査にも参加している女学生たちだと思われる。
◆写真中上は、529世帯の「貧乏線」調査に使われた質問カード。は、1921年(大正10)4月15日に開かれた自由学園開校式の様子で26人の生徒が入学した。教壇には、羽仁吉一(左)と羽仁もと子(壇上)の姿が見える。
◆写真中下は、開校式と同じく1921年(大正10)4月15日に行われた初授業の様子。は、同日に校舎の前庭(校庭)で撮影された本科1年生の入学記念写真。
◆写真下:1922年(大正11)に撮影された、竣工間もない自由学園校舎。学園が久留米町に移転したあと、「自由学園明日館」となった現在も意匠はほとんど変わらない。