『目白文化村』(日本経済評論社/1991年)の64ページに、こう書かれている。
 「第一文化村は不動谷と呼ばれる地域を開発したものである。(略) ここは落合台地の尾根筋にあたり、昔は所々に湧き水が湧いたといわれ、一九二一年の実測図でその地形を眺めると、高田馬場へと至るかつての主要道路の裏手には溜池が描かれている。その椎名町寄りの『不動谷』と書かれた一画、ここが目白第一文化村の場所である。」
 だが、上記の文章は明らかに誤りだ。「不動谷」と呼ばれたのは、現在の久七坂と西坂に挟まれた聖母坂のある谷間であって、現在山手通りの下になってしまった目白文化村を望む谷間は「前谷戸」と呼ばれていた。江戸期に作成された須原屋茂兵衛蔵版の切絵図でも、また1911年(明治44)に発行され住所表記が明記された地図にも、目白文化村が開発される土地の字(あざな)は「字前谷戸」であり、「字不動谷」はもっと東寄り、現在の下落合4丁目~中落合2丁目あたりに見える。おそらく、1921年(大正10)の「実測図」で「字不動谷」の記載場所が、かなり西へずれていたのだろう。
 目白文化村を開発した堤康次郎も、同じ間違いを犯している。目白文化村の開発を始めたとき、この新興住宅地の名を「不動園」と名づけているからだ。もっとも、この誤りは意図的なのかもしれない。「前谷戸園」では、いかにも田舎臭くて大正期のハイカラなイメージが湧かない。あえて、隣りの渓谷名を拝借したのかもしれない。ただ、「不動園」でもまだダサッと感じたのか、堤はかなり離れた省線電車の目白駅の名を冠して、すぐに「目白文化村」Click!と修正している。
 堤康次郎と、下落合の関係は古い。彼がまだ早稲田大学に在学中、下落合4丁目(現・中落合4丁目)に下宿していたころからだ。そして、下落合に住んでいた地元の女性と結婚している。そこから近隣の人脈が形成されたせいなのか、1914年(大正3)には早くも目白文化村の土地買収に手をつけている。こうして、わずか4年たらずの間に、現在の第一文化村に相当する土地のほぼ全域を買収し終えていた。整地や区画割りが急ピッチで進められ、前谷戸の谷間の中央では箱根土地(株)の本社建設も着手された。さらに4年後の1922年(大正11)、本社に隣接した第一文化村が売り出されることになる。