目白駅を出ると、すぐ左手の脇にある交番横から目白稲荷の谷間へと下りる坂道がある。ゆるやかな階段状の坂道なのだが、坂を下りきって左側を見ると、金網に囲まれていまは使われていない古いコンクリートの階段を見ることができる。この階段をのぼれば、下落合側の稲荷の谷から旧目白停車場へと一気に出られた。おそらく、大正期から昭和初期に設置されたものと思われる。
 だが、この目白稲荷のある谷は、ほとんど崖っぷちといってもいいほど急峻で、階段も長くかつ鋭角にならざるをえなかった。お年寄りや子供たちにはかなり危険だ・・・ということで、その後、改めてなだらかな坂道が掘削され、これが現在の交番横の階段状の坂道にあたる。でも、この古い階段は立入禁止にされたきり、ついぞ壊されることはなかった。なぜなのだろう?
 山手線の駅で、ときどきこういう過去の“遺物”に行きあたることがある。新大久保駅には最近まで、新宿空襲で焼かれた駅舎のねじまがった鉄骨が、そのままむき出しで新しい駅舎の天井に残されていた。このところ新大久保駅に降りてないので、いまはどうなったかは知らない。別にことさら遺跡でも、あえて保存されている貴重な記念物でもないのに、こういう“遺物”にぶつかると、その町の歴史とそこで暮らしていた人たちの匂い、悲喜こもごもの想いを強烈に感じることがある。

 手すりもない階段から落ちてケガをした子供は、どれだけいたのだろう? 和服がふつうだった時代、この階段をあがる女性のうしろを尾け、小股やふくらはぎを観察してはほくそ笑んだ不届き男が何人いたろうか? 子供が夜中に高熱を出し、目白通りの小児科へ往診を頼もうと階段を駆けのぼってつまずき、途中でウーウーうなっていたお父さんはどうしたろう? 目白駅から出征兵士を送るために、日の丸の小旗をもって集まった國防婦人会のお母さんたちが、この階段を下りるときどんな気持ちだったのだろうか?
 東京駅は、駅舎丸ごとが大正初期建築の記念物(空襲で焼かれているとはいえ)だが、なまなましさは感じない。でも、こういう何気ない“遺物”に、当時のなまなましい生活感を強烈に感じてしまい、きりのない想像をしてしまうのは、どうしてなのだろう。

■写真:上は取り残された階段の現状。下は1947年、敗戦直後の目白駅。谷へと下りる、新しいなだらかな坂が横に見え、階段はすでに使われていないようだ。