「不動谷」とともに、その位置が限定的でなかったのが「バッケが原」だ。「バッケ」とは、いまに伝わる縄文語(鈴木健『縄文語の発見』)とも、アイヌ語(頭・突端)とも言われているが、関東地方から東北にかけての地名に数多く分布している。「急峻な斜面」「崖線」の意だが、東北では「ふきのとう」をも意味する。これに類似する言葉として、国分寺崖線の「ハケ」が有名だ。「はけ」を広辞苑で引くと、同意の言葉として「ばっけ」も採集されている。
  【はけ】(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸。ばっけ。(『広辞苑』第五版/岩波書店)
 下落合では、小金井・国分寺のように「ハケ」ではなく、代々「バッケ」と呼ばれてきている。そして、目白崖線=バッケの下に拡がる原っぱを「バッケが原」と称していたようだ。目白文化村の子供たちは、この「バッケが原」で日の暮れるまで遊んだそうだが、世代によって原っぱの位置概念が微妙に異なっている。お話をうかがう方の年齢によって、「バッケが原」は妙正寺川に沿って少しずつ北西へと移動しているのだ。
 大正期から昭和初期ぐらいまでの「バッケが原」は、中井駅の北西あたり、当時の城北学園(目白学園)の下から中井御霊神社の周辺にあった原っぱを指していたようだ。現在の、落合公園あたりの区画も含まれていたのかもしれない。空襲時には、この「バッケが原」めざして避難した人たちも数多くいた。だが戦後は、妙正寺川に沿ってもう少し北に移動したあたり、上高田公園から西落合公園に近い一帯をそう呼んでいたらしい。若い世代の方にうかがうと、すでに「バッケが原」のエリアに中井御霊神社は存在していない。むしろ、葛ヶ谷に近い一帯をイメージされる方が圧倒的だ。

 さまよえる「不動谷」とは異なり、「バッケが原」が北西へと移動する理由は明らかだ。時代とともに住宅が建ちならび、妙正寺川沿いの原っぱが消えてなくなると、まだ残っている上流の原っぱを称してそう呼びつづけてきたからだろう。中井駅周辺の宅地化と、「バッケが原」の北上は同期していると思われる。
 いまでも、「バッケが原」というと下落合では通じることが多い。その多くは、「バケモノが出そうな原っぱ」だったから・・・という答えが多いのだが、実は「急峻な斜面下の原っぱ」という意味合いだった。でも、これほど古い地名語が残っているということは、妙正寺川と神田川が落ち合う下落合一帯は、古代からいかに住みやすい地勢であったかがわかる。以前、このブログで「ハケの下落合Click!という記事を書いたけれど、「バッケの下落合」という表現がより正確だろう。

■写真:戦後世代の「バッケが原」現状。公園やスポーツ施設、駐車場などになっている。
■地図:「バッケが原」の“北上”。