目白文化村に建設された屋敷で、建物の全体写真がきれいに残っているのは思いのほか少ない。おそらく、その多くが空襲でアルバムごと焼けてしまったせいもあるのか、同時期に開発された田園調布などに比べても写真数は限られている。だから、「目白文化村の幻影」とか、「まぼろしの目白文化村」・・・などと呼ばれるのかもしれない。
 文化村に建てられた住宅のデザインは、実に多種多様だ。この「目白文化村」シリーズでも、そのいくつかは個別に紹介してきたが、おしなべて西洋館あるいは和洋折衷家屋が多くを占めている。1909年(明治42)に、橋口信助によって設立された建設会社「あめりか屋」も、目白文化村の住宅建設では頻繁に登場してくる。当初は、政府/自治体施設や大企業、華族や財閥など大金持ちの大邸宅を手がけていた同社だが、大正期に入ると一般の「中流」向け住宅の建設にも進出してくる。これは「あめりか屋」に限らず、当時の洋風住宅を手がけていた建設会社には共通に見られる現象だ。
 また、シリーズ内でも紹介したが、明治末から大正期にかけて興った「生活改善運動」と密接に結びついた、「住宅改良運動」の影響も大きい。東京や大阪では、盛んに「住宅改造博覧会」と呼ばれるモデルハウスの展示会が行われ、従来の因習にしばられた和風住宅よりは開放的な洋風住宅を・・・という、政府や自治体主導の「改良」運動も盛んだった。
 

 文化村に建てられた家々は、イギリスの田園都市構想をベースとし「ドメスティック・リバイバル」を意識したような郊外住宅、アメリカのバンガロー風住宅、1900年のパリ万国博覧会でブームとなった「アール・ヌーボー」デザインの屋敷、建築家フランク・ロイド・ライトの影響が色濃いライト風建築、玄関前の棕櫚植えが映えるスパニッシュ様式の住宅、また文化村にはあまり見られず、文化村の周囲で昭和初期にブームとなったモダニズムの影響が強い家々・・・と、とても多彩な街並みを形成していた。ひょっとすると、目白文化村の存在そのものが、新しい時代の“住宅展示場”そのものだったのかもしれない。では、大正期の文化村と同時代に建てられた屋敷や、「住宅改良運動」のカタログに残る写真などを見ながら、目白文化村の街並みClick!を偲んでみよう。
 以上で、約8ヶ月にわたり連載してきた「気になる目白文化村」シリーズは、いちおう終了しようと思う。先日も文化村へ取材と撮影に行ったのだが、物語は無数に存在していてまったくキリがない。このへんで一度、切り上げようと思う。「気がすんだ目白文化村」としてフォルダも整理し(笑)、また気になるテーマができたら、随時ここで連載をしていきたい。

あ~~~、ついに終わった~!

「目白文化村」サイト Click!
■写真上:左はイギリスの郊外住宅風、右はスパニッシュ様式の家。
■写真下:左はライト風住宅、右は「住宅改良運動」のモデルハウス。いずれも大正期のもの。