以前、こちらでも紹介した、野鳥の森公園上の九条武子Click!の自宅だ。写真左は、自宅の木戸口にたたずむ九条武子。右は、まったく同じポイントから撮影した現在の様子。当時の面影はまったくないが、この道をまっすぐ進んだ野鳥の森公園には、彼女が目にした光景に近い緑が、いまだに濃く拡がっている。
 また、九条武子が立つ左手には、「下落合みどりトラスト基金」が保存を呼びかけている、旧・遠藤邸の原生林を活かした屋敷森が、当時もいまと変らずこんもりと繁っていたはずだ。この写真が撮られた大正末期は、土木建築請負業・服部政吉邸(下落合768)の敷地となっているが、旧・前田子爵邸の移築は10年以上も前に終わっていたと思われる。ひょっとすると近隣とのつき合いから、九条武子はそのいわれを知っていたのではないか・・・と想像するが、子爵邸に関する記述は彼女の随筆に登場してこない。また、下落合で初めての“公式記録”である『落合町誌』(1932年・昭和7)をひもといてみても、建物の由来は発見できなかった。
 関東大震災の直後、被災者の救援活動をつづける九条武子は、下落合753番地へと引っ越してきた。そして、当時の超ベストセラー随筆・詩歌集『無憂華』をここで執筆している。この大ヒット作品から、彼女は「無憂華夫人」などとも呼ばれることになる。戦後、菊池寛の『無憂華夫人』や、下落合と同様に湧水流れる小金井のバッケ(ハケ)の斜面を舞台にした大岡昇平の『武蔵野夫人』、五木寛之の『内灘夫人』など、連れ合いとうまくいかない寂寥感ただよう女性の代名詞、「○○夫人」という表現の、まさに彼女ははしりとなった。
 木戸口にたたずむ「無憂華夫人」は、なんとも寂しげで孤独感ただよわせているが、その半面、自分の意思や思想はどんなことがあろうと金輪際まげない、一徹でクールな性格をも備えた女性だったようだ。この写真が撮られてから、わずか数年後の1928年(昭和3年)2月7日、敗血症によりまだ42歳の若さで他界している。
 

 『無憂華』が、いったいどれぐらい凄かったかというと、1927年(昭和2)7月の初版から翌1928年6月までの1年たらずで、なんと159回も刷りを重ねているのだ。いったい何十万部売れたものか、今日でいうなら超ミリオンセラーというところだろう。しかも、『無憂華』が発売されてからわずか6ヵ月後に九条武子は亡くなってしまうので、さらにブームに火が点いた。昭和初期の大不況時に、これだけ売れた本は、ほかに同年出版された岩波文庫と大衆小説『丹下左膳』ぐらいしか存在しない。
 彼女の随筆や詩歌集の愛読者は、おもに女性だった。彼女の死後に版を重ねた『無憂華』には、九条武子のブロマイド頒布までが広告されている。また、本書を出版した実業之日本社では、膨大な利益を還元するために、彼女の墓碑の横に壮大な歌碑建設を計画していた。
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 丘を登りつむるところ、巌のかげに、小さな花が可憐な頭を擡げて、むらがり咲いてゐた。春の歩みが、此処までも押し寄せて来てゐることが考へられる。
 春は壮麗な花園のなかにのみ飾られるのではない。むしろ一輪の小さき花によつて、忘れられた巌のかげにもまた、春のよろこびが充ちてゐるのであつた。
 しばらくも倦むことのない、自然の働きを見のがしてはならない。みづからの営みを、丹念にたもちつゞけるものは、如何なる境涯に在つても健やかに生きることができる。そして、みづから生きるものにのみ、働きの法悦がめぐまれる。(『無憂華』所載「巌のかげに」より)
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 九条武子が下落合を気に入った理由は、吉屋信子や林芙美子のようにははっきりとしないが、おそらく静寂とした緑濃い武蔵野原生の森と、そこかしこから湧き出る清廉な泉とに惹かれたのかもしれない。作品を読むかぎり、歌作・詩作に随筆に、彼女は自宅の周囲をよく散歩していたと思われる。
  かたことと戸のそとにきて裏山の 薄(すすき)にはしる夜のあき風
 戸がかたことと鳴ったのは風の音ではなく、秋風が身にしみた“裏山”に住む下落合ダヌキが、「やさしくて強い武子夫人、なんかエサくれよう、ポンポコ」とノックしたのかもしれない。では、下落合における「無憂華夫人」の面影Click!を追ってみよう。

下落合みどりトラスト基金
■写真中:『無憂華』 九条武子 (実業之日本社/1927年・昭和2)
■写真下:旧・九条邸から野鳥の森公園へと下るオバケ道。この「オバケ道」という名称が、九条武子が住んでいた当時からあったとすれば、「バッケ(崖)道」の転訛したものかもしれない。目白文化村(第一文化村)にも、第二文化村を経由して「バッケが原」方面へと抜けられる、オバケ道と呼ばれる細道がいまでも残る。