目白駅のホームで、「絵のモデルになってくれませんか?」と、盛んにアプローチしているベレー帽の男がいた。大久保清ではない。時代は1920年(大正9)の9月、声をかけていたのは下落合に住む画家・鶴田吾郎、声をかけられていたのは盲目の詩人・童話作家でありエスペランティストでもあったロシア人のワシーリー・エロシェンコだ。偶然だが、このふたりは新宿・中村屋サロンClick!に出入りしている者同士だとは、このときまでお互いまったく知らなかった。
 さて、佐伯祐三があこがれた画家、中村彝(つね)の終の棲家も下落合にあった。中村彝のアトリエがあったから、佐伯は下落合へ引っ越してきた・・・といわれるほど強く惹かれていたようだ。目白駅でモデル探しをしていた鶴田吾郎は中村彝の学生時代からの親友で、同じ中村屋サロンに出入りしていた画家仲間だった。鶴田は、さっそく近所に住む中村彝のアトリエへ立ち寄り、いいモデルが見つかったことを報告した。すると、「ぜひ、いっしょに描かせてくれ」ということで、ふたりはエロシェンコを中村彝のアトリエへ招き、期せずして競作することになる。
 夜も昼も、8日間ぶっつづけで描きつづけ、結核で喀血を繰り返していた中村彝の身体を心配した鶴田が、8日目にストップをかけて創作はようやく終了する。こうして、中村彝『エロシェンコ氏の像』と鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』は完成した。ふたつの作品は帝展へ出品されたが、ここで明暗が分かれた。中村の『エロシェンコ氏の像』は、明治以降の肖像画の最高傑作とされたのに対し、鶴田の『盲目のエロシェンコ』は単に入選を果たしただけだった。
 
 中村彝(つね)が、豊多摩郡落合村下落合464番地にアトリエと母屋を建てて引っ越してきたのは、1916年(大正5)夏のことだった。若山牧水が「其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた」と書いた場所、のちに「林泉園」と呼ばれる谷戸地形の尾根上に、中村彝の住居兼アトリエは建てられた。
 結核の末期症状だった中村彝は、下落合に移り住んだ当初は近所へ写生散歩などにも出かけているが、少しずつ病状が深刻化するにつれて、家から外へ一歩も出られなくなっていった。「エロシェンコ」作品の明暗にもかかわらず、同じく下落合に住んだ鶴田吾郎は、最後まで中村彝を気遣いつづけていたようだ。1924年(大正13)11月24日、中村は大量喀血により38歳で亡くなっている。佐伯祐三が、下落合662番地へ念願のアトリエを建ててから、わずか4年後のことだった。臨終の当日、中村邸へ駈けつけた鶴田吾郎の手記が残っている。
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 ドアを開けて、目に映じた瞬間、しまつた、これは絶望だなと直感した、何んて静な光景だらう、まるで人跡のない林の中へ、太陽の落ちて行くその日射しが照らしてゐる如く、原始自然の気息が漲つてゐるやうであつた。
 いつも吾々と会つてゐた時と同じく、枕を南にして、寝台に横はり、西の方へ頭を斜めに傾けた侭、眼を開けて寂然としてゐるのである、冬の午後の光は、ガラス窓を透して髪から額、耳、髯といつた様に、絵に描いたキリストの顔その侭の上に暖な光を投げてゐた。
 何等の苦悶も見えない、たゞいつもの中村君が、未だ吾々にあまり見せなかつた、血を唇のあたりにつけて、幾分口を開けてゐたに過ぎない。私は先づ手をとつてみた、温味はあつたが脈は既に途絶えてゐた、中村君、中村君、中村君と私は三四度呼んだ、と、その口の中から「アー」といふ千切れる様な声が出た、更に名を呼んだ、而しそれは遂に求めることのできない頼みであつた。(『中村君の最後』より)
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 わたしは、大きな勘違いをしていた。「林泉園」の谷間が埋めたてられて大きなマンション群が建ち、茨城県立近代美術館に中村彝のアトリエが新築再現されたと聞き、「ああ、下落合のアトリエと母屋がとうとう壊されてしまったんだ」・・・と、勝手に思い込んでいた。まさに、アタマへ刷り込まれたという感じなのだ。ところが、十返千鶴子さんのエッセイ、「雑木林を右に歩を進めると、中村彝の住んだアトリエがある」という一文を読んで、「あれ、いったいいつごろまで残っていたのだろう?」とにわかに疑問がわいた。近所なので、さっそく寄ってみると・・・。
 中村彝の母屋とアトリエは、下落合の同所にそのまま丸ごと、いまでも手つかずに現存している。佐伯祐三アトリエよりも、さらに古い大正初期の建築だ。濃い屋敷森にスッポリと覆われ、まるで隠れ家のような建物なので、よけいに気づきにくかったのかもしれない。いま、北側の家が壊されて更地化され、住宅を新築中なので、ちょうどアトリエ北面をとてもよく観察できる。アトリエをかいま見るなら、絶好の機会、ちょうどこの数週間しかないのだ。いまは、Sさんのお宅となっているようだが、なんとか佐伯公園のように保存できないものだろうか?
 では、1916~1924年(大正5~13)に中村彝が病身を押して、下落合や目白あたりを写生をするために逍遥した下落合散歩Click!を偲んでみよう。

下落合みどりトラスト基金
■写真上:左は、下落合の旧・林泉園端に現存する中村彝アトリエ(北面)。この角度からの眺めは、これから二度と見られないだろう。右は下落合界隈の素描『目白の冬』。
■写真中:左は中村彝『エロシェンコ氏の像』(重要文化財)、右は鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』。ともに、下落合のこのアトリエで描かれた。
■写真下:戦後すぐの林泉園界隈の空中写真。中村彝の母屋とアトリエも、そのままなのが見てとれる。