目白文化村を取材していると、「文化村から葛ヶ谷の向こうに、富士山がよく見えたんですよ」・・・というお話をよく聞く。実際にどのように見えたのかは、なかなか写真が残っていないのでわからなかった。現在は、空気がよく澄んだ日でも、文化村から富士山を眺めることは、高い建物が邪魔をしてかなり難しそうだ。大正から昭和初期にかけて、葛ヶ谷(西落合)一帯は東京市の「風致地区」に指定され、別荘地や郊外のピクニックランドとして利用されていた。だから、あまり建物は多くなく、文化村からでも富士山が容易に眺められたのだろう。いまでは、山手通りあたりの高層マンションの上階からなら、なんとか富士山を見ることができるだろうか?
 だが、ようやく葛ヶ谷(現在の西落合)あたりから眺めた富士山の写真を見つけた。『おちあいよろず写真館』(コミュニティおちあいあれこれ/2003年)の中に収録された、前面に桜が満開の哲学堂が拡がる、葛ヶ谷御霊神社あたりのバッケ上から撮影されたものだ。(写真上) 哲学堂は1917年(大正6)に、井上円了によって開かれたが、それ以前は和田山と呼ばれていた。鎌倉時代に、和田義盛の館があったところと伝えられている。
 建物などの様子から、おそらく戦前か、戦後すぐに撮られたものではないかと思われる。この写真の左下には、中井駅から西へとさかのぼり、途中で北へ大きくカーブした妙正寺川が流れていて、その両岸はいわゆる「バッケが原」と呼ばれた一帯がつづく。ついでに、戦前の「バッケが原」の写真も掲載されていた。(写真下)

 女性が歩いている道が、学習院下や下落合から延々とつづくバッケ(崖)下の鎌倉古道(中ノ道)だ。右手の丘陵が旧・下落合4丁目(現・中落合/中井あたり)の急峻なバッケの姿。昔は台山、あるいは研しん山とも呼ばれ、この丘上には城北学園(現在の目白学園)があった。女性が歩いてきた方角(背後)には、中井駅や第二文化村からの南斜面があるとみられる。そして、道の左手には、妙正寺川とともに「バッケが原」が拡がっている様子が写る。写真の様子から、大正末か昭和初期ではないかと思われる。

「目白文化村」サイトClick!