1999年(平成10)に、会津八一記念博物館がオープンした。「目白文化村」シリーズClick!でも、なにかと登場回数の多かった会津八一だが、わたしはまだ博物館を観ていなかったので、さっそく出かけてきた。古代中国や日本の焼き物をはじめ、仏像や銅鏡、金石の拓本、はてはアイヌ民族のアツシ(着物)やマキリ(小刀)にいたるまで、「学生たちが東洋美術の本質と経過が理解できるよう」にと、膨大な美術品を蒐集した。その数は、たとえば明器395点、鏡鑑208点、拓本532点などものすごい点数にのぼる。目白文化村の空襲で、かなりの点数が焼けたとみられるので、コレクションの数はもっとあったのだろう。
 会津八一は、坪内逍遥に師事して1906年(明治39)に早大文学部を卒業すると、1910年(明治43)に早稲田中学の英語教師に赴任している。古代中国や日本の美術品を集めはじめたのは、どうやらこのころからだったようだ。早大の東洋美術史の教授になってからも、どんどん蒐集しつづけて、下落合にあった会津の自宅「秋艸堂」(しゅうそうどう)は、博物館級の美術品であふれかえっていた。1955年(昭和30)、会津が74歳のときに、早大内にはすでに「会津八一記念陳列室」が設けられ、蒐集品の一部が展示されている。
 いつも、疑問に思っていたことがある。会津八一は、中学や大学に勤めながら大量の美術品を買い漁っていたわけで、どうして教師の薄給で国宝クラスの美術品が買えるのか?・・・という点だ。調べてみたら、悪いけれどつい笑ってしまった。もう、借金まみれなのだ。いま風にいうと、サラ金や闇金からおカネを借りて、返せなくなると恩師の坪内逍遥や市島春城へ泣きついている。ずいぶん借金取りにも追われたらしく、恩師のもとへ身を隠すようなこともしたようだ。会津先生の衝動買いは、町金融の「ご利用は無計画的に」そのものだった。
 「棒給の一分を割いて身分不相応な買ひ物をし、そのためにつひ過分な借金をし、遂にはこの大学の大先輩の坪内逍遥、市島春城の両先生の人知れぬ援助でやうやく処分したものです」と、陳列室がオープンしたときに記している。とどのつまりは、早大にあった「陳列室」とは、会津八一が借金を肩代わりしてもらった早大当局に差し出した、“借金のカタ”そのものじゃなかったろうか? 書家でもあり歌人でもあった彼は、色紙へ「書画」を描いては友人から揮毫料をせしめて、蒐集(返済?)の足しにしていたそうだ。だが、彼が借金まみれの生活をしてくれたおかげで、わたしたちはとてつもなく貴重な、いまとなってはかけがえのない美術品の実物を、容易に目にすることができる。
 

 会津八一は、自分のことを「傲岸不遜秋艸道人」と称していた。確かに性格は激しく、歳を取ってからはその頑固さにますます磨きがかかったようだ。秋艸堂へ集った人々の間でも、好き嫌いがはっきりと分かれた。だが、その強い性格から、既存のアカデミズムや権威主義を徹底して嫌い、否定しつづけた。東大で冷遇された小泉八雲を、学生の身で早大へ「引き抜き」してきたのも彼だ。そんな「驕慢な私も、あたまを下げたのは坪内先生であった」(『渾齋随筆』より)・・・のだ。頭が上がらないはずだ。坪内逍遥はこんな弟子をもって、さぞや頭を抱えていたにちがいない。

■写真上:左は会津八一記念博物館の入口(早大)、右は戦後、名誉教授時代の会津八一。
■写真下:左は坪内逍遥夫妻、市島春城、会津八一(左から)の1922年(大正11)に撮られた記念写真。坪内夫妻が、江戸期生まれの人に特有の、「写真を撮られると手が大きくなる」などの迷信からか、手を袖に隠しているのが微笑ましい。右は、旧・下落合3丁目の霞坂傍にあった大正末の「秋艸堂」。