焼きたてのパンのようなこのキノコ、「ノウタケ」というのだが、通称「爆発キノコ」ともいう。とても美味しそうなのだが、実際に若いうちは美味のようで、汁物にはとてもいいダシが出るそうだ。でも、歳を取ってくると食べられなくなる。ぷっくら膨れたアタマの部分に、まるで脳のようなシワが寄り、それがピークに達すると「自爆」して胞子をあたりへまき散らすのだ。
 下落合の「おとめ山公園」で、長い年月にわたって写真を撮りつづけておられる、松尾徳三氏が撮影された。このノウタケのほかにも、おとめ山公園にはたくさんのキノコが生えていた。過去形で書くのは、現在はそれほど豊富に生えていないからだ。キノコが自生するには、ジメジメした枯れ草の堆積や、下草がたくさん茂っていること、倒木・折枝などがそのままになっていること、木々の密度が濃く陽があまり差さないこと・・・など、さまざまな条件が必要だ。ところが、最近のおとめ山公園にはそれがない。
 わたしが、初めておとめ山公園を訪れたのは、1974年の春だった。当時はうっそうとした森で、木々が間断なく密生し、落ち葉が堆積した腐葉土も豊富で、快晴にもかかわらず陽も差し込まない深淵な谷間だった。しばらくたたずんでいると、朽ちた木の枝がすごい音を立てて地面に落ちてきたりした。意識してキノコを見ていたわけではないけれど、地表は乾燥することなくいつもジメついていたし、泉の湧水量もかなり豊富だったのを憶えている。清流には、おそらくオニヤンマやクロスジギンヤンマなのだろう、とんぼの大きなヤゴが見られた。
 ところが、最近のおとめ山公園は、なんとなくスカスカなのだ。初夏なのに、木々の間から公園に隣接した建物が透けて見える。以前は、こんなことはありえなかった。地面もいやに固く、乾燥している。公園全体が、妙に明るくなってしまった。樹木を間引きし、下草を刈り、腐葉土を片づけ、枝払いを頻繁に行う・・・、要するに整備のしすぎなのだ。
 

 

 いろいろな意見があるのだろう。隣接する落合四小の子供たちは、大人と同伴でなければこの公園に入れない。おとめ山公園を訪れて、その美しさすがすがしさから住み着いてしまう「ホームレス」の人もいた。防犯上、公園を「明るく」したほうが親たちは安心だ。だが、“安全性”を考えれば考えるほど、御留山の自然は死んでいく。「都会の真ん中に、危険な地帯があるのは困るんだよ」と考えるか、「自然を残すリスク&ベネフィットをじゅうぶん踏まえて、次の世代へ自然を残してやるのがあたりまえじゃないか」と考えるのかで、御留山の姿は一変するだろう。確かに、おとめ山公園における「事故」よりも、その周囲の街中で起きた「事故」による被害者のほうが、比較にならないほど多いのは自明のことだ。旧・遠藤邸の屋敷森にしてもそうだが、広い視野とバランス感覚が問われる大きな課題だと思う。
 多くのキノコたちは、御留山が「明るく」なりすぎたことで、すでに滅んでしまった種類も多い。バッケに繁る森は、豊かなキノコの森でもあった。では、おとめ山公園キノコづくしClick!をどうぞ。

■写真上:若いノウタケ。美味しそうだ。
■写真下:①まるで焼きたての、ふっくらしたパンのよう。②やがて、「脳」のようなシワシワが一面にできる。このころは、まずくて食べられないらしい。③ドカンと一発、「自爆」して胞子をあたりにまき散らす。④「いまの爆発、気持ちよかったぁ!」とでも思っているのだろうか?(撮影:松尾徳三氏)