水道塔が、6月末までに壊されるそうだ。いや、写真上の通称「江古田の水道塔」=野方配水塔ではなく、豊島区を越えた板橋区にある大谷口の水道塔(配水塔)の話。高さ33mの大谷口配水塔は、「東京の水道の父」と呼ばれた中島鋭治が設計した。文化村から見えた野方配水塔、および世田谷区の駒沢配水塔も同様だ。いずれも、すでに建設されてから75~80年が経過している。野方と駒沢の水道塔は、強い保存運動が実ってこのまま保存されることになっているが、大谷口配水塔はなぜか地元から保存の声があまりなかったという。
 目白文化村の外れからもよく見えた、独特なロマネスク調の円筒形デザインをした野方配水塔は、文化村や葛ヶ谷界隈に住む画家たちが、好んで頻繁に写生している。以前、新宿歴史博物館で開かれた、文化村とその周辺に住んだ画家たちの作品を一堂に集めた「下落合風景展」では、水道塔をモチーフに描いた絵やスケッチの作品がもっとも多かった。それほど、野方配水塔の独特なフォルムは、画家たちの表現欲を惹きつけてやまなかったのだろう。
 文化村の画家たちが、「江古田の水道塔」をめざしてやってくると、そこから板橋のもうひとつの水道塔が眺められた。当時は高い建物がなかったせいで、ずいぶん遠方の水道塔が見えたようだ。野方配水塔とデザイン的にも対をなしていた姉妹塔が、大谷口に造られた水道塔だった。機能的にもペアをなしていたようで、野方と大谷口の各塔は配水圧力などでお互いが補完しあう構造になっていたようだ。泉麻人氏の文章にも、文化村近くから大谷口の水道塔をめざし、雨の中、自転車をこいでゆくエッセイが見える。
  ●
 (略)江古田の水道タンクは近所の、いわば縄張りのなかの建物であったので、じきに慣れた。なじみの場所になった。小学校の屋上にあがると、江古田のタンクよりもさらに彼方にもう一塔、“悪魔の城”が見えるのだ。いとこの家があった要町の奥の大谷口の水道タンクである。
 いとこの家に遊びに行ったとき、何度か道の彼方にその水道タンクを見た憶えがある。近所の江古田のタンクよりも若干、コンクリートが黒味を帯びているイメージがあった。
 あの大谷口のタンクのたもとまで行ってみよう、僕は雨中、カッパを被って自転車で出発した。うちからそのあたりまでは距離にして約二キロである。(『水道タンクの見える場所』より)
  ●
 

 独特のフォルムに魅せられて、下落合側からばかりでなく、中野方面からもさまざまな人々を引き寄せた江古田の水道塔だが、緊急災害時用に大量の飲料水を蓄えて、いまでも現役のままだ。来年度(2006年)には、水道局から中野区へと管理が移行されるらしい。中野区は、野方配水塔の保存にきわめて積極的だと聞く。周囲にアパートや高層マンションが増え、年々その姿を遠望することができなくなりつつあるが、西落合(葛ヶ谷)や松ヶ丘のシンボル的な存在であることは、いまも昔も変わらない。
 では、平塚運一をはじめ、目白文化村とその周辺に住んだ画家たちを惹きつけてやまなかった、昔日の水道塔の面影Click!を時代ごとに追ってみよう。

■写真上:江古田の水道塔(野方配水塔)。
■写真下:左は水道塔へ向かう途中、第二文化村の西外れにあるお米屋さん。まるで、中村彝(つね)のアトリエClick!のような美しいデザインだが、ご主人にうかがったら震災直後の大正12年に建てられた家とのこと。第二文化村が開発されたのとまったく同時期に、このお宅は建設されていたことになる。いまでも手入れが細かくいきとどき、建築された当時の様子をほとんどそのまま伝えている。右は水道塔の周辺、松ヶ丘にいまでも残るアトリエ。

「目白文化村」サイトClick!

野方配水塔と双子の大谷口配水塔(板橋区)