「目白」という地名は、江戸期に目白不動が造られたから、しばらくすると地名もそう呼ばれるようになった・・・と説明されることが多い。でも、わたしはそうではないんじゃないかと思う。ほかにも「白馬説」「家光鷹狩り説」「参詣人の多さ説」「めじろ説」・・・と、いろいろな伝承がある。
 慈眼大師(天海)が発案し家光が命名したとされる(確証はない)、江戸にはじまる五色不動だが、いちおう陰陽五行思想の木火土金水にもとづいて、五色の不動尊が配置されたことになっている。だが、陰陽五行を少しでもかじった方ならすぐにも気づくと思うが、色の方位と不動の配置がメチャクチャで一致しない。水(黒)=北であるはずの目黒不動がいちばん南にあり、木(青)=東にあるはずの目青不動が西にある。中央に建立されるべき土(黄)の目黄不動が、なぜか東にあるといった具合でまったく支離滅裂のバラバラなのだ。
 目黒不動を例に取れば、「目黒」という地名は江戸期以前の古くからあり、別に不動尊が建立される前から一帯はそう呼ばれていた。「馬畦(め・ぐろ)」は、古墳時代から馬牧場が多かった関東地方の特色をしめす地名のひとつ。ちなみに古墳期からの馬牧場(馬畦)遺跡は、南関東よりも北関東(上毛野勢力圏=群馬)のほうが数多く発掘されている。「めぐろ」の「め」は馬、「くろ」はそのまま畦(柵・境界)を意味する原日本語で、いまでもアイヌ語(道南地域)に継承されている。また、後世には「めぐろ」が馬そのものを指すようになり、明治期、この地に日本で初めての本格的な目黒競馬場が造られたのはとても象徴的だ。
 さて、目白という地名を考えてみると、まず「白馬説」。江戸期に書かれた酒井忠昌『南向茶話附追考』によれば、めずらしい白馬を産出する土地だったから目白と呼ばれていた・・・ということになっている。でも、目黒の伝承に引きずられて、無理やり馬に結びつけた気がしないでもない。「め・ぐろ」はそのまま馬牧場の意味だが、「め・じろ」のほうは地域の特色を指す言葉ではなく、馬体の色というのも不整合でわざとらしいので、江戸期に多い付会の匂いがする。学習院馬場の白馬Click!を見て、「あっ、馬(目)白がいた」と早合点してはまずいようだ。

 「家光鷹狩り説」は、将軍が下落合あたりで鷹狩りをした際、「目黒に対して目白と呼ぶべし」と言ったとか言わなかったとか・・・。でも、東京じゅうを見まわしてみると、「家光命名」の旧跡がやたら多いことに気づく。十五代つづいた将軍の中でも、三代・家光が突出して江戸中そこかしこに出没し、いちいち名前を付けてまわったことになってしまう。彼がことさら、地名ヲタクとか命名ヲタクだったという確たる証拠はないし、政務そっちのけで“市中散歩”ばかりしていたという記録もない。これは、地元の人が謂れを訊かれた際、つい箔をつけるために「大猷院(たいゆういん=家光法名)様から賜った」と答えるのが流行した時期があったのだろう。参詣人が目白押しにやってきたからという「参詣人の多さ説」にいたっては、もはや駄洒落のレベルだ。メジロがたくさんいたから「めじろ説」、ウ~ンウ~~ン。(汗)  目白にメジロがたくさんいたのなら、下落合にだってメジロはたくさんいただろう。(いまでも頻繁に見かける)
 「目黒」と同様に「目白」も、旧・関口村に小名として古くから伝わった地名ではなかったか・・・と考えるのが、わたしの説だ。地名に目黒と目白を発見したからこそ、五色不動のアイデアが誰か(天海・家光・綱吉・吉宗各説あり)の頭に浮かび、残りの「目赤」「目黄」「目青」が人為的に加えられたのではないか? 「目白(めじろ)」とは、古くから伝わる大鍛治(タタラ)用語で、上質の鋼(はがね)を意味する。弥生末期から古墳時代にかけ、クニが武装するうえでの要となる精製された鉄(=鋼)は、金銀よりも貴重で高価だった時代がある。現在の神田川や妙正寺川流域、すなわち目白崖線(バッケ)沿いは、いまの横浜から三浦半島あたりと同様、南関東でも屈指の良質な砂鉄の産地であり、古代の大規模なタタラ+鍛冶(大鍛治小鍛治)地帯ではなかったろうか。
 以前ここでも書いたが、山手通りの大規模な鍛冶場遺跡(中井遺跡)の発見や、鉄刀の出土とともに、古代出雲の荒神谷と同様の伝説が残る下落合Click!、そして謂れの古い稲荷(鋳成)や庚申(荒神:火床や溶炉の神)の社が点在する目白崖線一帯Click!、さらには、大規模な古墳群とみられる神田上水沿岸の「百八塚」の存在Click!などを踏まえて鳥瞰すると、どうしても「目白」という地名に出雲系と思われる、上流へ上流へとさかのぼっていった産鉄勢力のリアリティを感じてしまうのだ。神田川や妙正寺川沿いに展開する、砂鉄の帯、武器を鍛錬するのに最適な目白を産んだ道、その中心が目白・下落合界隈のいにしえの姿ではなかったろうか。

 ちなみに、古代からつづく川砂鉄の採集法は、「カンナ流し」と呼ばれている。地名になると「神奈」「甘南」「鉋」「神名」と、さまざまな漢字が当てはめられている。そしてもうひとつ、言語学の「タナラ相通」の法則※に従えば、「カンナ」は「カンタ」として伝承される可能性が高い。古代から平(ピラ=崖)川と呼ばれた神田川だが、江戸期よりはるか以前からつづく、この川の河口一帯に伝わる「神田」という地名にも、どこか産鉄の匂いがするのだ。
 鎌倉時代に助真や國光、行光、正宗、貞宗と、刀剣の最高峰と呼ばれる作品を創造した相州伝の名工たちだが、刀を鍛えるのに用いられた高品質の砂鉄は、現在の鶴見川から三浦半島あたり(いまの横浜・横須賀)にかけて産出したものだと伝えられる。そして一帯の地名は、古くから神奈川と呼ばれていた。「タナラ相通」の転訛があれば、こちらも神田川となっていたかもしれない。

※「タナラ相通」:古くから日本語の音韻転訛で、もっともよく起きる変化の法則。おもに地名における「た」「な」「ら」同士の転訛が多いことから、そう名づけられた。

■写真:上は現在の目白不動堂(金乗院)。もともとは神田上水大堰近く、椿山山麓(現・椿山荘)にあったのだが、いまは北西へ1,000m近く移動している。中は目白不動。秘仏なのにどうして写真があるの?・・・という疑問は、とりあえず置いておこう。下は研師に研いでもらった、古墳刀の鍛え肌。いわゆる月山肌や柾目肌、あるいは波の平肌に近く、後世の日本刀と見まがう高度な折り返し鍛錬法を、1500年もの昔の南武蔵で、すでに編み出していた様子がわかる。(古墳時代後期)