子供のころ、三味線をいじっていたことがある。竿(さお)の重ね(側面)に、細長い指押さえ練習用の譜尺(①~⑱ぐらいまでの番号がふってある)を貼って、チントンシャンと弾いていた。もちろん、撥(ばち)を使うわけだけれど、これがなかなかギターのピックのようにはいかない。すぐに三の糸(いちばん細い糸)を切ってしまうヘタッピーだったので、練習は爪弾くほうが多かった。
 家にあったのは、もちろん細竿だ。親父が子供のころ、清元や小唄の稽古に通わせられていたのだ。戦前の日本橋界隈には、町内に何人かの長唄や端唄、清元、常磐津などのお師匠(しょ)さんが必ずいて、子供たちに三味(しゃみ)や唄を教えていた。それが、江戸東京の下町に住む子供たちの、基本的な“教養”のひとつだったのだ。なにかの席や集まりで、三味を手に小唄のひとつも唄えないとバカにされてしまう。だから、みんなかなり一所懸命に習ったそうだ。親父も、いまの子があたりまえに塾へ通うように、お師匠さん宅へせっせと通っていた。
 そんな環境で育ったせいか、親父はわたしが中学生のころ、どこに仕舞ってあったのか三味線を持ち出して、楽譜とともにわたしに与えた。もちろん、そのころにはお師匠さんなんて近所にいないから、自分で勝手に勉強しろ・・・というわけだ。「ギターがほっし~!」とねだったら、なぜか三味線が出てきたので、目が点になる。弦があと3本、足りねえじゃねえかよ親父!・・・と言いたかったが、おカネが自由にならない身では仕方がない、あきらめた。駒(こま)が小唄用の、細身でとてもきれいな三味だった。女持ちの風情があったので、もともと祖母のものなのかもしれない。
 練習していると、♪チントンシャン~チントンシャン~ブチッと、さっそく三の糸を切ってしまう。さあ、予備糸がないからたいへんだ。近くの楽器屋に行ったら、「三の糸?」と怪訝な顔をされてしまった。三味線屋を探さなければならない。ようやく探し当てた三味屋へ行ったら、今度は「こんなガキが三味の糸だと?」と、もう一度怪訝な顔をされた。そんなこんなで、「♪花の大江戸の夜桜~三間見ぬまの小夜嵐~とくらあ!」と、半分ヤケになって練習したのだが、結局モノにはならなかった。どんな楽器でもそうだが、自習ではやはり上達しないのと、三味で「LET IT BE」を弾こうなんて不埒なことを考えていたからだ。
 三味線は便利な楽器で、ギターやビオラなんかとは異なりかさばらない。竿の途中にある、継ぎ手と呼ばれる箇所から3つに分解できるので、ショルダーバッグにも収まってしまう。組み立ても、いたってお手軽で簡単だ。こんなにスマートで、下町では粋で身近な楽器のはずなのに、昔から山手における請けはよくない。以前知り合いに、三味だったらうちにあるよ・・・と言ったら眉をひそめられてしまった。話の様子からすると、なんとなく花柳界や芸者を連想してしまうらしいのだが、60~70年ぐらい前までは、東京の町場で三味のひとつも弾けて小唄か都々逸でも口ずさめなきゃ、大人として恥をかいた時代があったんだよ・・・と言っても、なんとなく納得できない様子だった。同じ東京でも、下町と山手とではこうも生活感が違うものか・・・と、そのとき思ったものだ。
 しかし、親父は清元か常磐津をもはや唄うでもなく、面倒な三味はさっさと子供に押しつけて、自分は山手趣味の謡曲にすっかり取りつかれてしまった。「♪あなあさましや~あななげかわしやぞ~ろ~、げにめのまえの~うきよかな~」と、遠くの夜道から『隅田川』ときには『橋弁慶』が聞こえてくると、おふくろは夕食に火を入れて温めはじめたものだ。まったく、ないものにあこがれるとはよく言ったもので、親父の山手趣味は死ぬまでつづいた。
 練習に気のないわたしに、文字通りバチが当たったせいか、ほどなく胴の裏皮が破れてしまった。それ以来、三味は再びどこかに仕舞われ、わたしは「ギターギター、今度こそ6本の弦がある楽器がほっし~!」と再び叫びだした。でも、いまならもう一度、三味をいじってもいいかな・・・という気がしている。三味の店は神楽坂にあるので、糸の買い出しにも困らない。でも、それには胴の破れを直さなければならない。三味の皮は、やわらかい猫皮だ。・・・いま、うちには1匹、ちょうど猫がいる。

■写真:日本橋人形町の三味線屋。いつも切れてた「三の糸ください」と、つい入りそうになる。