1945年(昭和20)5月26日、下落合・目白一帯はただならぬ興奮と緊張に包まれていた。前日の25日深夜から始まった2回目の山手爆撃で、高射砲陣地の対空砲火が2機のB29を撃墜したからだ。1機は池袋上空で被弾し、高田南町二丁目(学習院下)にあった飛行機のマグネットを製造する「国産電機」の工場敷地へ墜落。ちょうど、いまの大正セントラルテニスクラブと大正製薬がある高田3丁目あたりだ。もう1機は新宿上空で被弾し、麹町一丁目に墜落している。その瞬間を捉えたのが、上の写真だ。
 B29による絨毯爆撃は、高度8,000m前後から焼夷弾を投下し、目標地域の周辺が炎上し対空砲火が沈黙すると低空飛行に移り、より中心地帯への焼夷弾投下と、逃げまどう人々へ超低空で機銃掃射を浴びせるという攻撃法を繰り返していた。3月10日以降に下町を襲った空襲Click!が、その典型的な攻撃パターンだ。だが、迎撃戦闘機の数が少なく、対空砲火もそれほど激しくないことがわかり始めると、徐々に爆撃高度を下げ、大胆にも2,000~3,000mほどで爆撃を行うようになる。5月25日深夜の山手空襲も、同様の高度で行われたようだ。7,000mを切れば、地上からの対空砲火がとどく高度だ。3月10日に下町の東京大空襲時に墜落したB29は13機(14機喪失のうち、1機は事故)だったのに対し、5月25~26日の山手爆撃時には、被弾してテニアン帰還中に海上へ墜落した機も含めると、逆に29機と急増している。
 B29による山手空襲は、5月25日に先立つ4月13日、すでに行われていた。このときは、高田馬場駅から神田川沿いに展開する工場地帯、そして目白文化村が爆撃Click!された。また、雑司ヶ谷あたりから池袋駅周辺も、同時に焼夷弾による空襲を受けていた。ちなみに、このときも1機のB29が池袋五丁目(現・池袋本町)に墜落している。5月25日夜の空襲は、さらに爆撃範囲を広げ渋谷、四谷、新宿、大久保、早稲田、高田馬場、目白、池袋などの市街地を、文字通り無差別に絨毯爆撃する大規模なものだった。ちなみに、親父は運が悪く3月10日に東日本橋の自宅で、4月13日には高田馬場の下宿先で二度罹災している。また義父は、5月25日新宿空襲の翌朝から、山手で唯一焼け残った大病院である、下落合の聖母病院へ負傷者をトラックでピストン輸送していた。

 当時、池袋に住んでいた『東京人』編集長の粕谷一希氏は、5月25日深夜から翌朝にかけた空襲のすさまじさを、こう書いている。
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 学校と我が家は共に四月十三日、灰燼に帰した。それだけでなく、わが家が臨時に間借りしていた鬼子母神近くの民家が、ふたたび五月二十五日に焼けた。
 その夜は法明寺一帯も業火に包まれ、空中に家財道具が舞い上り、龍巻きがおこって世も終わりといった感じのすさまじさ。学習院下にB29が墜落したときは、押しつぶされるような恐怖を覚えた。
 わが家族は鬼子母神の本堂で夜を明かした。神域の樹林が延焼を防いでくれたのである。(『わたしの豊島紀行』1987年7月号より)
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 東京大空襲の大川(隅田川)沿いとまったく同様に、雑司ヶ谷でも大火事のときに起きる火事竜巻現象が発生していたのがわかる。火事竜巻は風速100m近く、大火流による嵐は風速50mを超えていた。人間が地上に立っていられる状況でないのはもちろん、吹きつける熱風で人間が数秒で黒焦げになるすさまじさだ。その後も粕谷氏の一家は疎開をせず、8月15日の敗戦まで、空襲におびえながら鬼子母神裏の高田本町に住みつづけた。

 B29が墜落する際、搭乗員がパラシュートで脱出するケースも多かった。5月25日夜の空襲でも、地上で逮捕された米兵は、判明しているだけで24名にものぼっている。地上へ降りた搭乗員は、憲兵隊あるいは軍管司令部へと連行され、ほとんどが簡単な取調べのあとそのまま処刑された。だから、墜落が確認されると、パラシュートの降下が見えたか見えなかったかによって、墜落地周辺が極度に緊張することになる。5月26日の早朝、下落合・目白一帯が緊迫していたのもそのせいだ。だが、パラシュートを見た住民はいなかった。調査が進むにつれ、学習院下へ墜落したB29の搭乗員、機長のドナルド・フォックス中尉以下11名は、全員戦死していることがまもなく確認される。麹町へ落ちたB29の搭乗員も、脱出できずに全員が死亡していた。

 「民防空ハ最近ニオケル徹底カツ大規模ナル空襲ニ、其ノ戦闘意識ヲ殆ンド喪失シオリ、タメニ初期防火全クオコナワレズ、火災ハ全被弾地域ニ及ブ」・・・。これは、5月25日の山手空襲のあと、警視庁消防部が作成した記録の一部だ。ほとんど、「もはや打つ手なしのお手上げ」と降参しているに等しい。M69ナパーム焼夷弾の雨を、防火ハタキとバケツリレーで消火できると思っていた警視庁消防部の、まるで初期消火をしない住民が悪い・・・と、もう少しで言わんばかりのニュアンスだが、事実、3月10日の東京大空襲では、防火ハタキとバケツリレーで初期消火を試み、火に囲まれて逃げ遅れた人たちは膨大な数にのぼる。山手空襲ではその経験が「活かされ」、ハタキとバケツで消火を試みるようなバカげたことはほとんど行われなかった。だから、死傷者の数も3月10日に比べてはるかに少ない。だが、東京は8月15日までのあと3ヶ月もの間、B29あるいは陥落した硫黄島から飛来した戦闘機P51の攻撃にさらされつづけることになる。

■写真上:5月25日深夜、小石川丘陵から見た新宿・池袋方面。右が、池袋上空で被弾し学習院下へと墜落するB29の光跡。左が、新宿上空から麹町へと墜落するB29。中央には、空中で破裂し燃えながら落ちていく焼夷弾が見える。
■写真中:上から、空襲直後の高田馬場駅周辺と高田本町(雑司ヶ谷)。ともに、1945年(昭和20)4月13日空襲の直後と思われる。
■イラスト:学習院下に墜落したB29の残骸。搭乗員は、全員が脱出できずに死亡していた。(豊島区郷土資料館蔵)
■写真下:1947年(昭和22)の学習院下(高田南町)周辺の空中写真。墜落地点の上に見える崖線(バッケ)下の道が、鎌倉期からの雑司ヶ谷道。右手が都電学習院下駅。