この作品は「雪景色」とタイトルされていて、いつもの「下落合風景」ではない。でも、1927年の積雪があった時期に、佐伯祐三は間違いなく下落合にいたので、やはり近所を描いた風景だろう。もう、この絵を観たとたん、すぐにどこだかわかってしまった。雪の日、外で絵を描くにはかなり寒かったせいか、佐伯はここでもあまり遠出をしていない。彼のアトリエから、直線距離で300mしか離れていない場所だ。
 1922~23年(大正11~12年)に開設された、目白文化村の第一文化村と第二文化村の住民は、冬に雪が降るとすぐ近くにあるこの斜面に集まって、スキーやソリ遊びを楽しんでいた。のちに、住民たちから「スキー場」と呼ばれる急斜面だ。第一文化村には「前谷戸」の地名があるが、この斜面の下にある谷間もかなり深く、底を流れる渓流をさかのぼると箱根土地本社内の庭園「不動園」の池を経由し、第一文化村にあった弁天池の源流谷戸までつづいていた。
 
 この斜面の上部は、昭和10年前後に改正道路(山手通り)の開通で削られ、絵に描かれている建物はすべて解体されてしまった。1936年(昭和11)の空中写真では、まだ環状6号線の工事は始まっておらず、絵に描かれた横長の2棟の建物などをはっきり確認することができる。この斜面は、第一・第二文化村と第四文化村とに挟まれた崖線で、箱根土地の所有地ではなかったのかもしれない。その後、昭和10年代には崖下近くが整地され家が建っているが、崖上の急峻な斜面は戦後もしばらくは草地のまま放置されていた。
 佐伯の作品をよく観察すると、大人はスキーを、子供はソリ遊びをしているように見える。上の細長い校舎のような建物は、大正期の地図を見ても空白となっていて、なんの建物だかわからない。材木商の倉庫、あるいは文化村の住宅建築を請け負う建設会社だろうか? 右手の建物の背後には第一文化村、左手の背後には第二文化村が拡がっている。また、佐伯がイーゼルを据えた背後には、渓流が通う第四文化村の森と、さらに反対側の高台には落合小学校があったはずだ。

 現在は、この斜面にびっしりとマンションや住宅が密集していて、「雪景色」の光景を重ねるのは困難だ。かろうじて、第四文化村Click!の開発時に区画・整地のために高く積み上げられた、大谷石の土台が残っている。谷底を流れていた渓流も、暗渠化されていまは存在しない。

■写真上:佐伯祐三「雪景色」(1927年)
■写真中:左は1936年(昭和11)の「スキー場」、右は戦後すぐのころの同所。山手通りの工事で斜面の上部が大きく削られ、絵にある建物がすべて壊されている。
■写真下:現在の斜面を、上から谷間へ向けて眺める。右上に見えている建物は、落合第一小学校(旧・落合小学校)の校舎。