佐伯祐三の絵ではきわめて珍しい、抜けるような青空の「下落合風景」だ。大正末期に流行したらしい、ペンシルのような門柱のある左手の(見えないがおそらくは)西洋館。中央には隣接した、暖炉の煙突がある木造らしい赤い屋根の洋館が描かれていて、右端にも住宅の壁面の一部が見える。その左手奥には、当時の標準的な日本家屋の屋根がのぞいている。でも、この絵の中でもっとも特徴的なのは、遠方に見えている高い煙突だ。
 当時の下落合地区で煙突といえば、銭湯ないしは神田川・妙正寺川沿いにあった工場のものだろう。でも、川沿いの低地だとすると、目白崖線(バッケ)の丘がどこにも見えない。視点が南寄りを向いていたとすれば、丘陵は見えないのだが・・・。まず、神田川沿いと妙正寺川沿いの周辺を丹念に探してみたが、工場煙突の位置関係とともに、それらしい家並みと道筋を見つけることができなかった。川沿いでないとすれば、落合丘陵の平坦な台地上の風景であり、描かれた煙突はほぼ銭湯のものとみて間違いないだろう。

 大正から昭和初頭、下落合では以下の7軒の銭湯が営業していた。それらは目白通り沿いか、あるいは丘陵下の妙正寺川沿いにあり、下落合の内側に建っていた住宅街は、当時からほとんどの家々が内風呂だったとみられる。
  ①目白駅のすぐ西側にあった銭湯だが店名は不明(下落合445番地外れ)
  ②徳川黎明会の南にあった「ときわ湯」(下落合536番地)
  ③丸正とモスバーガーの間を入ったところにあった「富士の湯」(下落合574番地)
  ④聖母坂を上がりきった右手にある「福の湯」(下落合635番地)
  ⑤第一文化村北側の府営住宅の中にあった「菊の湯」(下落合1543番地)
  ⑥第一文化村外れの小野田製油を入ったところにあった「萩の湯」(下落合1534番地)
  ⑦中井駅の北東にあった「草津温泉」(下落合1866番地)
 中井駅の西北部、つまり旧・下落合4丁目の西半分(葛ヶ谷方面にかけて)は、大正末から昭和初頭はまだ田畑が多く人家もまばらで、銭湯のような集客施設はほとんど見られない。このような住宅街とともに描かれている煙突は、上記の銭湯のうちのどれかだろう。
 画面の右手を北だとすると、このような道筋で煙突が見えたと思われるのは②の「ときわ湯」と⑦の「草津温泉」だ。だが、②の周辺は家が建て込みすぎ、⑦はこの位置だと崖線の斜面となってしまい、この絵のような風景はない。⑦の南側には畑と西武電気鉄道の線路がある。画面の右手を東または南だとすると、残りの5つの銭湯のいずれもが該当する。1936年(昭和11)の空中写真をたどっていくと、絵の家並みは佐伯祐三のアトリエからわずか100mほどしか離れていない、第三文化村北部の真ん中あたりの家並みに一致した。そして前方に見える煙突は当時、目白通りに面した長寿庵(蕎麦屋/下落合1496番地)の角を曲がったところにあった⑤の「菊の湯」だ。

 晴天にもかかわらず、佐伯は遠出をせずに自宅兼アトリエのすぐ近くにイーゼルを据えたようだ。この位置から道路を挟んで右手を見やると、ひょっとしたら④の「福の湯」の煙突Click!も見えたかもしれない。空中写真には偶然にも、「菊の湯」の煙突からモウモウと立ちのぼる煙までがはっきりと写っている。絵の中央に描かれた西洋館の左(西)横に、1936年(昭和11)には新しい屋敷が建っているのが見える。また、赤い屋根の西洋館の背後に描かれた、塔の先のような黄色い建築物は、第三文化村に設置された配水塔(配水タンク)だろうか? 空中写真にも北側に2つ、丸い小さな建築物が縦に並んでいるのがわかる。

 第三文化村の北部は、1945年(昭和20)の空襲でほとんどの家々が焼けている。戦前は、西洋館や日本家屋が混在する、この絵のような風情だったのだろうが、いまはふつうの住宅街であり、当時の面影はなくなってしまった。

■写真上:佐伯祐三「下落合風景」(1926年)
■写真中:1936年(昭和11)の、第三文化村上空。左上が「菊の湯」の煙突から立ちのぼる煙。
■写真下:描画と同じポイントを、ほぼ同じ角度から眺めたところ。家々の敷地にゆとりがなく、道路ぎりぎりまで建て込んでいるため、現在は眺めがきかない。奥に見える茶色い高層マンションの頭部あたりが山手通りだが、「菊の湯」の煙突が見えた位置はその左手あたり。「菊の湯」は戦後に廃業している。