この道は、旧・林泉園の北側につづく尾根道だ。林泉園の深い谷間と2つの池は、とうに埋め立てられてしまい、豊かだった湧き水も暗渠化されて、現在は下水管の中を流れている。夜になると、下落合東公園に置かれたネコたちのエサを目当てにしているのだろうか、タヌキが行き来する道Click!となっている。わたしの学生時代に通い慣れた道Click!だが、ほんの数十年ほど前には、この道は大きなサクラ並木で覆われ、春になるとピンクのトンネルが出現していた。
 この道を、いまから90年ほど前には、実にさまざまな人々が中村彝のアトリエClick!めざして通ってきていた。中村彝は、弟子を持つタイプの画家ではなかったけれど、彼を慕って多彩な人々が集まってきた。中村彝のアトリエを借りて、「若きカフカス人」を制作した中原悌二郎、中村屋に寄宿し彼のモデルとなったニンツァー、旧・下落合3丁目からは霞坂に住んでいた会津八一、当時はアトリエを持たず、やはりときどきアトリエを借りていた目白通り近くの鶴田吾郎、彼が目白駅でモデルにスカウトしたエロシェンコ、エロシェンコを連れて通うようになり、断絶状態が解けた中村屋の相馬黒光(こっこう=良)、低い生垣を飛び越えて入ってきた伊藤信(のちの中原悌二郎夫人)、彝の画風に惹かれた藤島武二、のちに“中村彝の会”を結成する鈴木良三・・・と、数え上げたらキリがない。
  
 もちろん、『下落合風景』の画材を求めて逍遥していた佐伯祐三も、間違いなくこの谷間にやってきただろう。1921年(大正10)に、下落合へアトリエを建てた彼は、おそらく中村彝のアトリエをうかがうようにこの道を歩いたに違いない。まるで、彝に遠慮するかのように、彼はこのアトリエから半径300mの景観を、『下落合風景』Click!には描いていない。この距離感は、身体の調子がいいときに中村彝がスケッチブックを手に下落合を散策できる(彼は「目白風景」と呼んでいた)、限界の距離値だったと思われる。鋭敏な佐伯は、それを察知していたからか、6歳年長である中村彝のアトリエ周辺を、あえて画材に選ばなかったのかもしれない。佐伯が彝のアトリエをスケッチしていたら、はたしてどのような『下落合風景』になっていただろうか? 
 
 中村彝の体調が悪いときは、誰が訪れても家政婦役の岡崎キイは追い返していた。だから、傷心の大島旅行の想い出を植えた、ツバキが繁る生垣を飛び越えて会いに来る人たちもいた。岡崎キイはまるで母親のように、中村彝の体力の消耗を防いでいた。当初は、反りが合わずにケンカばかりしていたようだが、仲が悪いほどお互い依存しあって実はとても仲がいい・・・の例えどおり、中村彝はのちに彼女へ全幅の信頼をおくようになった。中村彝の遺骨を抱いて、水戸・祇園寺の納骨まで付きあったのは岡崎キイだった。
 少し前に、ここで集中的に佐伯祐三の『下落合風景』の場所特定シリーズを連載したけれど、今度は中村彝のアトリエを中心に、彼の物語を繰り広げてみたい。彝の作品は、果たしてアトリエや庭のどの位置で描かれたものか、現存する写真はアトリエのどこで撮られたものか、現在のアトリエ実景と作品とを見比べながら、少しずつ書いていきたいと考えている。もちろん、佐伯祐三の不明な『下落合風景』の5作品(3風景)Click!もあきらめたわけではなく、継続して調べてみたい。

 実に多彩な、数多くの人たちが通ってきたこの道だけれど、中村彝が待ち望んだたったひとりの人は、ついにこの道を向こうからやって来はしなかった。サクラが大好きだったその女性は、中村彝が逝ってからわずか3ヶ月後、26歳の若さで病没している。

■写真上:旧・林泉園上の尾根道。両側にサクラの巨木が植わっていたが、正面に写るたった1本のサクラだけが、当時の名残りをいまにとどめている。
■写真中上:左は、アトリエの庭に見られる大きなツバキのひとつ。中村彝が植えた当時のものか、あるいは二代目の幹なのかはいまとなっては判然としない。右は、多くの人々が踏んだ、アトリエへと向かう黒光りのする廊下。
■写真中下:左は、1916年(大正5)の建築当初の中村彝アトリエ。右は、同じ角度から2006年の同アトリエ。左では手ごろな庭木が、右の現在では大木へと成長しているのがわかる。90年の歳月を感じるショットだ。
■写真下:中村彝の葬儀は、神式によりアトリエで行われた。中央のやや左より、白布の棺のかたわらに寄り添うのが岡崎キイ。