もう1枚、佐伯祐三の「下落合風景」作品が手に入ったので、ひきつづき描画場所の特定Click!を試みたい。ゆるやかな坂道がつづき、もうすぐ尾根筋に近いのだろうか、正面には西洋館の2階らしい建物が見えている。坂道が右へとゆるやかにカーブしているので、正面の建物は道の左手に建っている可能性が高い。右手にはこじんまりとした洋風和風の建物が並び、中央の樹木の陰にも家が隠れているのがわかる。
 ゆるやかな坂道の手前には、左へと曲がる道があるようだ。でも、この道は右へそのまま突っ切ってないので、十字路ではなくT字路であることがわかる。左側には雑木林が拡がっていて、赤い屋根の小さな小屋のような建物が見えている。相変わらず、佐伯が描く下落合の空は、どんよりと曇っていて憂鬱だ。1926年(大正15)9月の作品といわれる、佐伯祐三の『道(下落合風景)』(個人蔵)は、以下のような場所を描いている。

 この風景を、1936年(昭和11)に陸軍航空隊によって撮影された落合町の空中写真へ重ねてみると、現在の下落合側(旧・下落合1~2丁目)には、ここに見られる右カーブの、少し広めでゆるやかな坂道に沿った家の配置は存在しない。現・下落合のバッケ(崖線)尾根に近い坂道は、当時、大倉山や相馬子爵邸(御留山)、学習院昭和寮と、道の右側が森林で覆われている場所がほとんどで、このように家々が建ち並ぶ環境ではなかった。久七坂が通う尾根筋かとも考えたが、空中写真を細かく観察しても、左折する道と建物がこのような位置関係にある場所は存在しない。
 とすると、このだらだら坂は旧・下落合3~4丁目(現・中落合/中井2丁目)、つまり佐伯祐三が頻繁に足を向けていた目白文化村Click!とその周辺の可能性が非常に高い。佐伯が特に好んで描いているのは、第二文化村周辺(中落合)と、林芙美子が“ムウドンの丘”Click!と名づけた中井2丁目の坂道だ。ついでに、改正道路(山手通り)が貫通する前の、翠ヶ丘ならびに赤土山の南斜面とともに、いまの十三間通り(新目白通り)側から見た北斜面も検討しなければならない。ただし、中井駅北側の坂道のうち、三ノ坂から西側は田畑が多く、佐伯がこの絵を描いてから10年後の1936年(昭和11)でさえ、このような住宅環境にはなかったことは、これまでに何度か触れてきたとおりだ。
 だが、上記の坂道をひとつひとつ細かく調べていっても、この絵に該当する穏やかな右カーブの坂道は存在しなかった。よく一致する風景が1箇所、一ノ坂の下に見えるけれど、これを一ノ坂だと仮定すると、前方により急な崖線がせり上がっていなければならない。二ノ坂の場合だと、崖線はやや右手にせり上がるが、このような坂道および家々は存在しない。バッケ(目白崖線)の南斜面に刻まれた、すべての坂道を検討してみたが、該当する坂道は見つからなかった。崖線へ深く食い込む、谷戸地形の坂まで調べたけれど、このような場所は見当たらず、さすがに途方に暮れてしまった。
 
 そこで、目白文化村にお住まいの方へ、絵を見ていただいて相談したところ、「ここじゃないか?」と指摘された場所があった。こんなところにダラダラ坂があったのかと、わたし自身にも意外だったのだが、第二文化村のすぐ北側を走る道、現在の中落合4丁目、落合第二中学校が間近に見える道だ。さっそく、昭和初期の空中写真で調べてみると、これがピタリと一致した。念のために、現場を訪れて検証すると、現在は風景が一変しているし、坂の勾配もアスファルトなどで修正されて昔ほど角度がなくなっているが、確かに『道(下落合風景)』の風情を感じさせる、右カーブのゆるやかな坂道が存在していた。ちょうど、佐伯が生きていた当時の地番でいうと、下落合1567番地あたりだ。
 昭和初期、この絵に描かれた坂道の左手の枠外には、下落合でも有数の火の見櫓が建っていた。左手に見える赤い屋根の小屋状のものは、火の見櫓に詰める消防員の休息施設の可能性がある。現在のこの一画は、交番と区の施設として利用されている。また、右手に見えている竹垣の家は、1926年(大正15)現在の宇田川邸だ。2つの空中写真にもはっきり写っているが、坂道を登りきったあたりにある2階建ての家は、1926年(大正15)の早い時期には存在しなかったようで、地割りによる敷地化はなされているが、住民の記載が見当たらない。ちょうど、佐伯がこの絵を描いたころに完成し、住民が入居したのではないかと思われる。
 
 佐伯祐三は、どうやら目白文化村とその周辺に拡がる風景に、強く惹きつけられていたようだ。直接、目白文化村の中を描いた作品としては、落合小学校(落合第一小)へ寄贈され、いまは新宿歴史博物館で管理されている、第二文化村のテニスコートを描いた『下落合風景』Click!と、菊の湯の煙突が見えている第三文化村から眺めた『下落合風景』Click!の2点がある。他の作品は目白文化村の周辺を歩きまわりながら、気に入った風景に出会うとつど立ちどまり、キャンバスを拡げていた・・・という印象が強い。
 第二文化村の北辺も、1945年(昭和20)4月13日の空襲で焼けている。火の見櫓も焼失し、坂の右手に建っていた家々も焼けているが、坂道を上りきった正面に見えてる2階建ての洋風住宅は、道を隔ててかろうじて延焼をまぬがれている。では、上空から眺めた落合町の空中写真に、13番目の「下落合風景」描画ポイントClick!を記載しよう。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

■写真上:1926年(大正15)の9月に描かれたと伝えられる、佐伯祐三『道(下落合風景)』。
■写真中:左は作品が描かれた10年後の、1936年(昭和11)の空中写真。左手に雑木林が拡がっているのが見えるが、赤い屋根の建物までは確認できない。右は、1947年(昭和22)の同坂。火の見櫓は焼失し、作品に見える右手の家々も全焼している。
■写真下:左は、右へとカーブする現在のダラダラ坂。土やアスファルトで整地され、勾配が昔ほどではないのがわかる。右は、いまだに屋敷森が多く残る、第二文化村の遠景。