どうしてもわからなかった、佐伯祐三『下落合風景』シリーズの5作品のうち、4作品までの描いた場所がほぼ判明した。佐伯が『下落合風景』を描いてから5年後の、1936年(昭和11)の空中写真をいくら眺めてみても、発見できないわけだ。わずか5年の間に、それほど風景が大きく変化してしまった、目白文化村(第三文化村)の東側に接した一画だった。描画場所を特定するきっかけとなったヒントは、佐伯祐三がこと細かに書きつづけていた「制作メモ」に残されていた。
 「みづゑ」619号(1957年・昭和32)に掲載された、佐伯祐三の制作メモを見ると、1926年(大正15)に描かれた『下落合風景』シリーズは、秋から冬にかけて集中しているのがわかる。中でも、9月と10月のメモは充実していて、ほぼ毎日1~2作品ずつ描いている。ものすごいスピードであり、とんでもないハードな仕事ぶりだ。このメモの中で、戦災により焼けてしまったり、戦後は行方不明となった『下落合風景』作品も数多いとみられ、運よく撮影されてモノクロ写真ながら見ることができる作品を含めても、現存しているのはおよそ半分ほどだろうか?
 この制作メモの中には、以前、わたしが描画場所を特定した位置と明らかに一致するものがあり、「やっぱりね」・・・と改めて感じた記載もある。以下、9月下旬から10月下旬にかけてのメモだ。
 9月18日 「原」(20号)、「黒い家」(20号)制作
 9月19日 「原」(15号)、「道」(15号)制作
 9月20日 「曾宮さんの前」(20号)、「散歩道」(15号)制作
 9月21日 「洗濯物のある風景」(15号)制作
 9月22日 「墓のある風景」(20号)、「レンガの間の風景」(15号)制作
 9月24日 「かしの木のある家」(15号)制作
 9月25日 「曇日」(15号)制作
 9月26日 「上落合の橋の附近」(20号)制作
 9月27日 「夕方の通り」(20号)、「遠望の岡」(20号)制作
 9月28日 「八島さんの前通り」(20号)、「門」(20号)制作
 9月29日 「文化村前通り」(20号)、「切割」(20号)制作
 9月30日 「坂道」(20号)、「玄関」(15号)制作
 10月1日 「見下シ」(20号)制作
 10月2日 「晴天」(20号)、「遠望」(20号)制作
 10月7日 「松の木のある風景(○○が畑/細道)」(15号)制作
 10月10日 「森たさんのトナリ」(20号)制作
 10月11日 「テニス」(50号)制作
 10月12日 「小学生」(15号)制作
 10月13日 「風のある日」(15号)制作
 10月14日 「タンク」(15号)制作
 10月15日 「アビラ村の道」(15号)制作
 10月21日 「八島さんの前」(10号)、「タテの画」(20号)制作
 10月23日 「浅川ヘイ」(15号)、「セメントの坪(ヘイ)」(15号)制作
  ※直筆の佐伯メモを高精細でスキャニングし、画像処理をして読み取ったタイトルや、のちに旧・下落合の地元から発見された最新資料による解読タイトルも含まれています。
 この中で、すぐにもピンとくるのが10月11日に描かれた「テニス」だ。のちに、落合小学校(落合第一小)へと寄贈されることになる、『下落合風景』ではもっとも有名な作品。第二文化村の南端に位置する、益満邸の敷地にあったテニスコートClick!を描いている。キャンパスの号数がほんの少し合わないが、佐伯祐三の号数メモは他の作品を見ても少しアバウトだったふしがある。翌日の12日には「小学生」という小品も描いているが、落合小学校へ通う生徒たちを描いたものだろう。この作品を、わたしは残念ながらまだ目にしていない。

▲10月11日「テニス」
 日付は前後するが、9月25日と26日は妙正寺川あたりを歩いている。26日の「上落合の橋の附近」は、明らかに流れを変えてしまう前の妙正寺川に架かっていた旧・昭和橋Click!を描いている。もちろん、この時代のコンクリート橋には別の橋名が付いていたはずだ。そうすると、前日25日の「曇日」は中井御霊神社下Click!のような気がしてくる。
 
▲9月21日「洗濯物のある風景」         ▲9月26日「上落合の橋の附近」
 9月19日に描かれた「道」は、もちろん先日ご紹介した「道(下落合風景)」Click!に間違いない。同日に描かれた「原」は、第二文化村北側のいずれかの原っぱだろう。9月29日の「文化村前通り」と「切割」は、いったいどこのことだろうか? 同日なので、両作品が近接している風景であるのは想像がつくが、4つの文化村のうちのどこを描いたものだろう。いままで、佐伯の『下落合風景』に登場していない、第一文化村のような気がしている。「切割」とは、弁天池のあった谷戸ではないだろうか? 10月14日の「タンク」というのも気になる。おそらく、各文化村に設置された水道の配水タンクを描いたと思われるが、どの文化村のものだろう? 第三文化村の配水タンクは、菊の湯の煙突が見える風景Click!でチラリと描いていた。(ちなみに葛ヶ谷の向こう、野方の水道塔Click!はまだ建設されていない)

▲9月19日「道」
 10月23日の「浅川ヘイ」と「セメントの塀」は、後者の「セメントの塀」Click!の場所特定を以前にしている。“洗い場”と呼ばれた泉の湧く、諏訪谷に面した大六天のある尾根筋だ。この描画ポイントは、同じく洋画家であり中村彝に兄事した曾宮一念邸のあたりから、久七坂筋の道を描いたものだ。そして「浅川ヘイ」とは、曾宮邸から道ひとつ隔てたお屋敷である浅川邸に間違いない。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。

 つまりこの日、佐伯祐三はこの通りの風景の東南方向(大六天)と東北方向(浅川邸)を描き分けていたことになる。だが、マンションに建て替えられる前、学生時代のわたしも実際に目にしている「浅川ヘイ」と思われる『下落合風景』を、わたしはまだ一度も観たことがない。

▲10月23日「セメントの塀」
 それにしても、彼の旺盛な創作欲に唖然とする。この「制作メモ」からは、佐伯祐三が下落合をスケッチしながら逍遥した、かなり詳細かつ正確な足跡をたどることができる。そのポイントとなるのは、そこかしこに記載された人名だ。1926年(大正15)に作成された、住民名の記載がある下落合地図と佐伯の「制作メモ」とを照合すれば、それがどのあたりを描いたものかがわかる。不明だった4点の『下落合風景』Click!も、それで判明したのだ。
 では、明日から不明だった4作品の場所特定を試みてみよう。

■写真:1922年(大正11)ごろ、屋外で仕事をする佐伯祐三。このころは、同じ下落合にアトリエを構える中村彝Click!に共感し、レンブラントなどを盛んに模写していた。まるでルノワールのような風景画Click!を描いたのも、ほんの数年前だ。