敗戦間近の1944年(昭和19)秋に、陸軍参謀本部陸地測量部が撮影した下落合上空からの空中写真を入手した。このわずか半年後、1945年(昭和20)4月13日の夜半には神田川・妙正寺川沿いの工場地帯が爆撃Click!を受け、つづいて5月25日の深夜には池袋から目白通り沿いが空襲Click!による延焼で焼け野原になっている。
 下落合は屋敷森の濃い緑が多く、なんとか延焼を食い止められたために池袋や高田(現・目白~高田)、戸塚(現・高田馬場~早稲田)地区などに比べ、家々が焼けずに比較的よく残っていたほうだ。だから、わたしたちはいまでも、下落合のそこかしこに残る古い建築を目の当たりにすることができる。空襲ではなく、地震や大火災でもまったく同じだろう。緑が少なくなると火の勢いは止められず、東京大空襲Click!の下町のように町全体を焼きつくすことになる。
 1944年(昭和19)の空中写真を細かく眺めていると、いろいろと気づくことがある。1936年(昭和11)の空中写真と比較して、相違している点が面白い。まず、補助45号線(聖母坂)がまっすぐに貫通して、現在と同じかたちになっている。8年前の写真では、旧・ホテル山楽のあった半円形の道に合流していて、いまの西ノ橋で妙正寺川を渡っていた。だが、8年後には下落合駅の踏み切り筋の道が開通し、新たに落合橋が建設されているのがわかる。また、家々の数が増えており、特に聖母坂の両側や西武電気鉄道と下落合駅周辺の宅地化がいちじるしい。妙正寺川の周辺は、4月13日の空襲でもっとも被害を受けた地域だ。
 意外な発見もある。現在のおとめ山公園の上にあった相馬子爵邸Click!が、丸ごとない。わたしは漠然と、空襲による類焼で焼けてしまったものと思っていたのだが(事実、敷地のすぐ東側まで火が迫っていた)、どうやら戦前ないしは戦時中に解体されてしまったようだ。しかも、相馬邸を東西に横切る道、現在の財務省官舎がある北側の道も、すでに造られていたことがわかる。1936年(昭和11)の空中写真には、この道のすぐ上あたりに大きな相馬邸の母屋が建っていた。空襲を予期して、家ごと疎開してしまったものだろうか?
 
 もうひとつ、8年前の写真では広大な空地となっていた近衛邸の敷地に、多くの建物が造られている。大正期まで、ここには目白中学校と東京同文書院が建っていた。1909年(明治42)に設立された目白中学校は、現在の中央大学付属高等学校のことだ。初代の校長には、侯爵・細川護成が就任している。同文書院は、近衛篤麿が日中友好と双方の人材育成を目的として設立した専門学校だ。下落合にあった同文書院は「東京同文書院」、上海にあった同院は「東亜同文書院」と呼ばれていた。余談だが、『夢顔さんによろしく』(西木政明・著)や『異国の丘』(劇団四季/浅利慶太)で脚光をあびた、近衛文麿の長男・近衛文隆も同院の学生主事に就任し、1939年(昭和14)に上海へと赴任している。
 1944年(昭和19)の写真を拡大して見ると、すでに区画割りが行われびっしりと住宅が建ち並んでいるので、太平洋戦争前に分譲されたものだろう。この敷地の北西には「家庭購買組合」、いまの生活協同組合が設立されている。早くから設立された目白文化村の「同志会」Click!と同様、共同購入のしくみで生活用品を市価よりも安く、下落合の家庭へ販売していた。
 
 1936年(昭和11)の空中写真に比べ、1944年(昭和19)の写真はとても写りが悪い。最初は、前者の天候が快晴で、後者がそうではないからだ・・・とも思ったけれど、どうもそれだけではないような気がする。敗戦色が濃厚となりつつあり、物資の不足が深刻さを増していて、そもそもレンズやフィルムの質がかなり悪化していたのではないだろうか。
 上空からではわからないが、このころから下落合の各家庭には、庭先や玄関脇に防空壕が掘られ、防火ハタキやバケツを使った防空演習も頻繁に行われるようになる。

■写真上:1944年(昭和19)の現・下落合上空で、陸軍参謀本部陸地測量部による撮影。
■写真中:左が1936年(昭和11)の相馬邸上空で、右が8年後の同所。
■写真下:左が1936年(昭和11)の近衛邸敷地上空で、右が8年後の同所。