この『下落合風景』に描かれた、道の幅とカーブには特徴がある。目白崖線(バッケ)が描かれておらず、煙突が数本見えている。もちろん、バッケ下に展開した風景だろう。しかも、家の数もまばらで、畑地あるいは原っぱが拡がっている様子が描かれている。旧・下落合1~2丁目(現・下落合)の崖下には、1926年(大正15)現在、すでにこのような場所は存在しない。中小の工場(おもに染物や薬品の工場)と住宅が進出し、建物がかなり密に建設されている。佐伯は、土が積み上げられた土手のような、視点の高い位置からこの作品を描いている。

 周囲の景色や道幅から推定すると、この道は旧・下落合3~4丁目(現・中落合/中井2丁目)下の道、つまり中ノ道(中野道)Click!に間違いないだろう。鎌倉時代に拓かれたこの崖下の道は、江戸時代になると旧・下落合3~4丁目あたりから西では中ノ道、旧・下落合1~2丁目界隈では雑司ヶ谷道と呼ばれていた。しかも、このような急激なカーブを描く道筋は、崖線に沿うように刻まれた中ノ道といえども、そう何箇所も存在しない。
 左遠方に見えている煙突は、1926年(大正15)当時に中ノ道沿いにあった、このあたりで唯一の銭湯である「草津温泉」だろう。左手前からカーブする幅広の道は、前方に見えている「草津温泉」の店前へとつづいている。右手遠方の煙突は、おそらく建って間もないなんらかの工場のものと思われる。煙突(右)の手前下あたりには、周辺の農家で収穫された下落合野菜Click!を集積する、大正期の市場があった。

 画面の中央を左右に横切る、あたかも手前のカーブの連続した道のように描かれているのが、中ノ道よりも幅の狭い南へと入り込んでいく小路。青果市場は、この南へ入りこむ道の左手にあったので、正面の畑地に藁束が積み上げられた右上あたりに見えるのが、市場の建物なのかもしれない。また、右端に見える木立の連続は、まだ客車運行を始めてなかった西武電気鉄道の、線路沿いに植えられた並木だと思われる。1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、さらに工場が増えたとみえて、建設された煙突からの煙がかなり見て取れる。
 ところが、このクニャっと曲がったカーブの道は、近くの中井駅が開業するとともにできるだけ直線化が試みられたものか、空中写真でも地図でもカーブが浅くなっているのがわかる。1926年(大正15)当時の佐伯の絵や、当時の地図類を参照(記事末)すると、北側の斜面を削りカーブをゆるやかにして、寺斉橋筋の道を北へと伸ばしているのがわかる。佐伯は、その掘削工事の最中にこの『下落合風景』を描いた可能性があり、描画位置が高いのは積まれた土砂の上にイーゼルを据えていた可能性がある。(ものたがひさんのコメント参照) だから、現在の道筋から撮影しても、絵との画角が合わなくなってしまう。
 
 この絵のすぐ背後、葛ヶ谷方面へとつづく中ノ道にも、南へと入る小路がある。その道は、西武電気鉄道の踏み切りを越えて、すぐに妙正寺川にかかる寺斉橋へとさしかかる。佐伯がこの作品を描いたときには、まだ存在しなかったけれど、ほどなく踏み切りのところに中井駅Click!が建設されている。表現をいま風にすると、この作品の描画ポイントは中井駅を出て左折(北折)し、突き当たったT字路を右折してすぐの道端あたりだ。佐伯は、この寺斉橋筋の踏み切り北側にある、小さなY字路の情景Click!も『下落合風景』として描いている。
 
 右に見える細長い煙突からは、黒い煙が吐き出されている。左の「草津温泉」とみられる煙突からは、木材を燃やしているのか白煙が立ちのぼっている。大正から昭和初期にかけ、急速に住宅や工場、商店などが建ち並びはじめた妙正寺川沿いの一帯なので、「草津温泉」の利用客はうなぎのぼりに増えていったのかもしれない。
 では、この『下落合風景』を空中写真の描画ポイントClick!へと追加しよう。

■写真上:左は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。右は、現在の描画ポイント。見通しがきかないので、当時の風情はほとんど感じられないが、道の形状にはほんのりと面影が残る。
●地図:1926年(大正15)に作成された「下落合事情詳細図」。中ノ道沿いには「草津温泉」の名称と、南へ入り込んだ道には「市場」の文字が見える。
■写真中:左は1936年(昭和11)、右は1947年(昭和22)の空中写真。
■写真下:左は、旧「草津温泉」の後継銭湯だろうか、ほぼ同じ位置に建っている「ゆ~ザ中井」。右は、絵を横切るように描かれた南へ入りこむ青物市場への小路で、正面には西武新宿線が横切る。同一場所とは、まったく思えない住宅街となっている。