佐藤俊介(洋画家・松本竣介Click!)の聴力が失われる直前、盛岡中学で英語教師の平衛直衛による授業を受けはじめていたころのこと。投石事件Click!のあと、中国人留学生がほとんどいなくなってしまった東京同文書院の校舎は、新たに目白中学校としてスタートし、そこでは平衛の実兄もやはり英語を教えていた。目白中学は、ことさら有名な教師陣をそろえて評判となり、短期間のうちに「公立では一中、私立では目白」と言われるほど有名になっていた。
 校長には、目白台の細川家11代目・細川護成が就任し、科目教師には漢学・桂五十郎をはじめ、歌人・木下利玄、国語学・秋山正平、英語学・清水起生、哲学・紀平正美、十時弥(とときひさし)などがいた。東京の郊外に建つ、新興の目白中学で英語を教えていた、盛岡中学の英語教師・平衛直衛の兄とは、のちに「アイヌ学者」として知られる金田一京助だ。それぞれ専門分野をもったエキスパート教員たちが、中学校で大学なみの授業を展開していた。
 目白中学校が創立された当時、隣接する東京(目白)同文書院は名前こそ残っていたものの、その本来業務である留学生の受け入れはあまり行っていない。目白中学は、第1期生がわずか31人と、校舎の規模にくらべたらスカスカ状態だった。そのぶん、当時の大学教授クラスの教師陣と密接な授業が行え、それが大きな評判を呼んで人気が沸騰したようだ。ただ、キャンパスが近衛邸の敷地に建てられていた関係から運動場が狭く、武道などのあまりスペースをとらないスポーツが盛んだったようだ。唯一、ベースボール部だけは例外で、早稲田実業とともに全国中学野球(現・全国高校野球)への出場権を盛んに競っている。
 
 余談だが、金田一の「アイヌ学」は、一貫して「滅びゆくアイヌ文化」を博物館へ集めてピンでとめるような研究姿勢から、アイヌ民族から強い反発を受け、大正~昭和当時も、また現在でも批判されつづけている。今日、アイヌ語講座が各地で盛んなのは、「アイヌ文化は滅ぶ」と言いつづけけた金田一京助に対する根強い反発が、いまでもどこかに底流として残っているように思う。言語は民族や地域文化の本質的な基盤だと考えるが、専門家でもない東京のわたしでさえ、アイヌ語辞書を3冊も持っているのだから、金田一の時代から100年近くが経過しているにもかかわらず、アイヌ文化は滅びてはいない。むしろ、現在ではそのエコロジカルな価値観や自然観が、ことさら注目を集めていたりする。女性向けのアイヌ語タイトル誌「nonno」(ノンノ=花)なんてのも、いまだ残ってたりするし・・・。
 ちょっと脱線してしまったけれど、当時の目白・下落合界隈には、大学は多くても中学校(現在の高等学校)は存在せず、地域の人気は高まる一方で、1921年(大正10)ごろには募集生徒150人に対し、500人以上の志願者が殺到することとなった。入試に落ちた生徒には「予科」が設けられ、本学への編入が行われたのもこのころのこと。ただし、自由な校風の反面やんちゃな“不良”も大勢いたようで、大正の末ごろには、多くの窓ガラスが割られて寒風吹きすさぶ教室での授業もあったようだ。のちに“哲学小説家”と呼ばれる埴谷雄高が入学してきたのも、ちょうどそのころのことだ。

 人気の高かった目白中学にかげり見え始めたのは、近衛家が財産を処分し土地を売却することになったあたりからだ。目白中学は近衛邸の敷地に建てられていたので、やむをえず練馬へと移転することになる。でも、昭和初期にみまわれた大恐慌のせいで私立学校は生徒数が激減し、目白中学も経営が立ちいかなくなってしまった。校名も、再移転先の西荻窪で、目白中学校から「杉並中学校」へと改称。1948年(昭和23)までは杉並中学として存続したが、1952年(昭和27)には中央大学に吸収され、付属高等学校として現在にいたっている。

■写真上:目白中学での記念撮影。前列中央が、英語教師として赴任した金田一京助。その右側が、国語教師の秋山正平。さらにその右手には、目白中学校の校舎の一部が写っている。
■写真下:左は、目白中学の卒業写真。右は、校舎が建っていたあたりの現況。
●地図:1918年(大正7)の「早稲田・新井1/10,000地形図」(大正5年修正測図)に描かれた目白中学校。校舎の南に、東京同文書院の留学生用に建てられた寄宿舎らしい細長い建物が見える。