あの日に帰りたい?
『紙屋悦子の青春』(黒木和雄監督/2006年/日本)

 原爆が投下される前日の長崎を静かに描いた『tomorrow―明日』以来、この時代をていねいに切り取ってこられた名監督、黒木和雄の遺作。原作は『美しい夏キリシマ』の共同脚本家でもある松田正隆の戯曲である。
 冒頭、年老いた悦子(原田知世)と夫(永瀬正敏)が交わす小津映画ばりのリフレインは、ともに実際以上に若く見えるふたりに似合わない老けメイクも手伝って笑いを誘うが、回想の昭和20年へ舞台を移すと、いつもながら畳の目から茶碗まで、その時代の息吹が伝わってくる。
 B29が3月10日の東京を皮切りに13日大阪、17日神戸、19日名古屋と、わずか10日ほどで都市部を焼け野原にした昭和20年も、季節になれば桜は咲く。鹿児島あたりにはまだのどかさが残っていたのか、町なかより食料事情がよかったのか、来客のためにおはぎを作る程度の余裕はあったようだ。そのとっておきの小豆粒は、『tomorrow―明日』で、南果歩が作った目玉焼きのようにきらきらと輝きを放つ。
 さて紙屋家の来客というのは、悦子が心を寄せる兄(小林薫)の後輩の航空兵(松岡俊介)そのひとではなく、彼の親友で悦子に一目ぼれした永瀬である。押し出しのよさそうな男と、求婚にきたのに肝心のことは言えず緊張のあまり出されたおはぎをひとりでばくばく食ってしまう気の利かない男。そんなふたりが親友どうしで、ヒロインの夫となるのは後者という想定に、向田邦子の『あ・うん』を思い出す。あの物語の門倉と水田の関係ははっきり憶えていないが、死ぬ覚悟で好きな女を親友に託した門倉が、それなのに生き残ってしまったとしたら……などと思いながら観たが、この映画では、特攻を志願した松岡は命を散らす。
 
 戦前の教育を受けたこの男が悦子をほんとうはどう思っていたかはわからない。永瀬は親友から託された手紙を持ち帰るが、それは観客である私たちの目前では開かれない。また、好きだった男の親友と指先ひとつふれないまま結婚の約束をする悦子の本音もわからない。
 その時代を生きた人は、そういう時代だったと一笑するのだろうが、気の利いた挨拶もできないのにいざとなれば「あなたをひとりにはしない」なんて歯の浮くようなことが言えるのも、それに対して「あなたをここでずっと待ってる」と返せるのも、明日をも知れぬ身だからだ。いまの時代、口のうまいお調子者ならまだしも、無愛想で不器用な男がこんなことを言ったら、自分ががいないと困る理由でもできたか、さては借金かと痛くもない腹を探りあうかもしれない。へそまがりな私はそうだ。まちがっても、ずっと待ってるなんて言えないなあと思い至って、気がついた。純愛というのは、やはり死と隣りあわせになければ成立しない、と。つまり不治の病か、戦争、である。
 隣国と海で隔てられた島国、日本は言うまでもなく世間知らずな国である。だからこそロシアや中国なんて大国に攻め入るなんて向こう見ずなことができたのだが、ウブな世間知らずほど大胆なもの。個人より国家、長幼の序に、お上の言うまま、そんなよくも悪くも人びとが純粋だった時代、不謹慎を承知でいえば恋愛も結婚も今よりずっとラクにできただろう。なにしろいつ爆弾が落ちてきて死ぬかわからないのだ。そんなときにぐずぐず思い煩ったり、くだらないかけひきを考えているヒマはない。見知らぬ外国で出合い頭に恋に落ちるように、ちょっとした縁を、運命のように思ってすがっても不思議はない。
 
 と調子よく書いてきたが、本当は不自由な時代。そんな時代をうらやましいと思わせるのが黒木監督の腕である。『tomorrow―明日』の南果歩や、『父と暮らせば』の宮沢りえ同様、この映画でも、本上まなみや原田知世が清潔で美しく、とても幸せそうに見える。特に原田の兄役の小林薫と、義姉で親友の本上まなみ夫婦のやりとりは主人公のふたり以上に微笑ましい。もんぺからワンピースに着替えて夫を出迎えるところや、電報を運んでくる郵便屋さんを戸口で待つところ、そのしぐさや言葉の端々にだんなさんが好きでたまらないという愛情があふれていて、この大柄な女優が幼女のように可愛いのだ。
 黒木監督は、昭和20年という日本にとって特別な時代を、特別ではない市井の人の暮らしを徹底して描くことで反戦の思いを伝えてきた。これは日本人が純粋だった時代が舞台の、極上の恋愛映画なのである。
                                         負け犬
Click!
●岩波ホール 8月12日~公開予定