「満州映画社」の李香蘭(山口淑子)Click!が、第二文化村の坂の下あたりに住んでいたことは以前に触れたが、もう少しさかのぼって大正期には“大陸浪人”(妙な呼称だ)の川島浪速、そしてその養女である川島芳子(愛新覚羅顕紓)も下落合に住んでいた。中国名をあえて名乗った日本人少女と、日本名を名乗った中国人少女。のちの、このふたりの運命を考えると、なんとも不思議なめぐり合わせの感覚にとらわれるのだけれど、大正期以前の下落合に中国色が強いのは、近衛篤麿が開設した東京同文書院Click!(中国と日本の交換留学生の受け入れ学校)が、目白通りに面してあったせいだからだろうか?
 雑司ヶ谷上屋敷(あがりやしき)の宮崎滔天Click!もそうだけれど、当初は中国革命を支援するために、亡命した孫文ら革命家を純粋に援助するのが目的だったようだが、時代が下るにつれ、特に昭和期に入って日本のカイライ国家「満州国」が成立する前後には、どこか中国大陸を舞台にしたキナ臭い「特務」の影が、下落合界隈にチラつくような気がする。“大陸浪人”という漠然としたショルダーもそうなのだが、「特務」とは情報収集をしたり謀略を企図して日本の陸海軍部へ協力する、いわばエージェント(工作員)ないしはスパイ(間諜・草)のような存在だ。戦後、これらの「特務」の活動はずいぶん明らかになっているけれど、いまだ歴史の闇に埋もれた「特務」機関もたくさんあるだろう。
 川島芳子というと、条件反射のように「東洋のマタ・ハリ」「東洋のジャンヌ・ダルク」と返せる人は、いまや70歳以上の方たちだろうか。うちの親父も、この名前を聞くと「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と必ずつぶやいていた。愛新覚羅顕紓(川島芳子)は、清朝筆頭の名家・粛親王の娘(14王女)に生まれたが、清王朝滅亡後に王家再興を夢みる父親のもとで育てられた。もともと清朝は北方ツングース系騎馬民族=女真族(いわゆる満州族)の出自で、粛親王は「満蒙独立」を唱える川島浪速と急速に親しくなり、娘の顕紓を川島家へ養女に出す。このあたりの詳細は、関連書籍を読んでいただきたいのだが、こうして愛新覚羅顕紓改め川島芳子は、1915年(大正4)の8歳のときに下落合538番地へとやってくる。

 川島(嶌)邸は、目白通りから少し北へと入ったところ、中村彝Click!の画仲間である洋画家・大久保作次郎邸のすぐ南側にあった。目白通りをはさみ、高田町から長崎村のエリアへと入りこんだ一帯に、下落合の“飛び地”が島状に細長く東西へとつづいている。そのちょうど中ほどに、川島(嶌)邸は建っていた。川島芳子の伝記などでは、「川島浪速の広大な屋敷」と表現されることが多いけれど、下落合の家と、のちに移転する松本の家とを混同しているか、あるいは大正末までに敷地を縮小して姻戚が住んでいたのだろうか? 下落合の家は、「事情明細図」で見る限り100~150平方メートルほどで、周囲の家々に比べて「広大」というほどの広さではない。北側にある大久保作次郎の敷地(おそらく400平方メートル前後)に比べても、その半分以下の面積だ。
 川島芳子は、この家から近くの池袋駅西口にあった、豊島師範付属豊島小学校へと通っていた。彼女は学校で、さまざまなエピソードを残しているが、教育実習にきた大学生を「おい、キミ!」と呼びつけた話は有名。自分のことを、「ボク」と呼ぶようになったのもこのころからだろうか。のちに「満州国」に絡んで関東軍に協力し、五族協和・王道楽土の「満州国」が単なる日本の植民地であることに失望して批判的となり、関東軍に疎まれて抹殺されかかるなど、まるで三流映画のシナリオみたいな、ことさらドラマチックな生涯を送ることになるのだが、詳細は関連書籍で・・・。李香蘭(山口淑子)とは、川島芳子が天津で中華料理店を経営していたころに知り合い、同じ「よしこ」のよしみで親しくなったらしい。李香蘭の自伝によれば、最後は盛んに日本政界や軍部へ向けて関東軍批判を展開し、蒋介石との和平樹立を訴える手紙を送っていたようだ。
 
 川島芳子は戦後、国民党政府により「漢奸」(反逆通敵罪)として1948年(昭和23)に北京で銃殺された。川島浪速が戸籍へ芳子を入れず、日本国籍を取得できていなかったから・・・とされているが、真相はわからない。これで、悲劇的な清朝の王女物語は終わり・・・になるはずだった。
 ところが最近、陸軍特務の「吉薗資料」が公開されて、そこにはまったく異なる内容が記載されている。新聞記者たちに公開された、顔を撃ちぬかれた川島芳子とされる死体はまったく別人であり、翌年に成立した中華人民共和国政府のもとで軟禁状態におかれていたというのだ。吉薗と親しかった藤山愛一郎からの質問に、日本にも留学経験のある周恩来が、「マルです」(国内で生きています)と日本語で明快に答える様子が明らかになったのだが、いま生きているとすれば99歳の川島芳子。さて真相は奈辺にありや・・・?

■写真上:下落合538番地(現・下落合3丁目21番地)にあった川島邸跡あたりの現状。
●地図:1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」。大正中期に松本へ転居しているが、川嶌(島)の名前が見える。1924年(大正13)に死去した中村彝の名前もそのまま残る同図なので、転居後の削除をしなかったか、あるいは川島浪速の親族が住んでいたのだろうか?
■写真下:左は、粛親王(右)と川島浪速(左)。右は、川島芳子(愛新覚羅顕紓)。