佐伯祐三の制作メモClick!の中に、以前から「フビラ村の道」(10月15日)とされている『下落合風景』のタイトルがある。でも、このタイトルはおそらく99%の確率で誤読だと思う。正確には、「アビラ村の首(道)」が正しい解釈だ。なぜなら、中井駅北側の斜面に「アビラ村」ないしは「阿比良村」と、カタカナと漢字の双方が書き込まれた、古い図面が見つかったからだ。実はわたしもそうなのだが、下落合の「フビラ村」がどこなのかを、さんざん探しまわってしまった佐伯祐三『下落合風景』のファンがいらしたとしたら、なんともお疲れさまで気の毒な限りだ。
 以前、従来は「森尾さんのトナリ」とされていた『下落合風景』が、ものたがひさんのご指摘で、実際は「森た(田)さんのトナリ」Click!であることが判明している。同様に、これまでは解読不能な「○○○の前」となっていたタイトルも、精細なスキャニングとOCRソフトを応用した画像解析で、どうやら「曾宮ち(さ)んの前」Click!と書かれていることがわかった。わたしは、フビラ(フヴィラ)が北欧に見られる別荘建築の名称なので、とんがり屋根の文化村に見られた西洋館を見て、佐伯がそう名づけたのだろうと勝手に想像し、「フビラ村」という表現には特に疑念を抱かずにきていた。
 ところが、“ムウドンの丘”(林芙美子)に古くからお住まいの邸宅に、とんでもなく貴重な図面資料が眠っていた。大正末に作成されたとみられる、「アビラ村経営地」の文字が入った「島津邸案内図」と、「阿比良村平面図」のふたつだ。ご提供くださったのは、洋画家・刑部人のご姻戚でいらっしゃる炭谷様だ。その資料を拝見させていただき、「アビラ村」の文字を発見したとき、わたしは思わず叫び声をあげてしまった。佐伯が描いていたのは「フビラ村」ではない、「アビラ村」だったのだ。
 
 地名の下落合や字(あざな)とは別に、「目白文化村」と同様、通称あるいは愛称として付けられたと思われる「アビラ村」の範囲は、平面図によれば東西は一ノ坂から六ノ坂あたりまで、南北は五叉路のある目白崖線上の尾根道から妙正寺川のあたりまで・・・と、かなり広大なエリアとなっている。現在、出版されている佐伯画集や書籍のすべて、および展覧会の図録などに掲載されている「制作メモ」が、「森たさんのトナリ」や「曾宮さんの前」につづき、またしても大きく変わってしまった。「フビラ村の道」とされていたタイトルは、「アビラ村の首(道?)」と訂正されるべきだろう。では、以前と同じように高精細スキャナとOCRソフトを応用して、「制作メモ」の画像解析をしてみよう。
 画像を検討すると、従来は「フ」と解釈されていた文字の、右上から左下へと斜めに下る線の途中に、鉛筆にもう一度力を入れて描いたと思われる屈曲が見られる。斜線の流れも、微妙に方向を変えているのがはっきりとわかる。つまり、「フ」ではなく「マ」ないしは「ア」という解釈ができるのだ。でも、「マ」にしては斜線の影が左下へと走っているので、やはり「ア」と解釈するのが自然だろう。また、従来は「道」と読まれていたいちばん下の文字はどうだろう? こちらはハッキリとはしないが、“しんにょう”のような影が見えないこともない。ただ、同じ「制作メモ」内に残る「道」という字体と比較すると、“しんにょう”に相当する影のかたちが、他の文字とは明らかに異なっている。こちらは、そのまま素直に見え方を尊重して、「首」または「道」の双方の可能性を残しておきたい。すなわち、10月15日に描かれたとみられる『下落合風景』は、「アビラ村の首(道)」となるだろう。
※その後、「制作メモ」の写真を入手して画像解析をした結果、消えかけていた“しんにょう”が現われて「アビラ村の道」と書かれていることが確認Click!できた。
 
 
 では、「アビラ」とはなんのことだろうか? 当初、「アビラ村」を漢字で書いた「阿比良村」という表現が存在することに、わたしは考えこんでしまった。まず、「アビラ」が「あびらうんけん ばざらだとばん」(大日如来)の真言から、採られたものではないかと考えた。「アビラ村」にある大日本獅子吼会は法華宗の流れなので、真言との結びつきは考えにくいが、旧・落合町にある寺院の多くが、真言宗系であることに注目した。最勝寺、薬王院、自性院・・・と主要な寺は真言宗で、宗徒も昔から周囲に多く住んでいただろう。
 もうひとつは、戦前まで盛んだった富士講からの視点だ。「アビラ村」(現・中井)のお隣りの富士講である、葛ヶ谷(西落合)講社の奉神は「木花咲耶比売」だった。富士山信仰なのだから、「木花咲耶比売」を奉るのは自然だ。現在でも、同講社の「木花咲耶比売」を描いた掛軸が、葛ヶ谷御霊神社に残されている。では、中井講社の奉神はいったい誰だったのか?・・・ということになる。それは、「阿比良比売」ではなかったか・・・という想定だ。富士講は室町時代に、九州出身の長谷川角行によって開かれたとされるが、「木花咲耶比売」の同族といわれる日向出自の「阿比良比売」も、同時に奉られはしなかったか? いまからは想像もつかないけれど、江戸期から延々とつづく富士講は、昭和初期まで下落合全域に深く根をおろしていた。最後の講社が解散したのは、戦後のことだ。
 でも、どちらも見当違いだったようだ。「アビラ」村とは、スペインのマドリッド郊外にあるアビラ(アヴィラ)町を想定して命名された、林芙美子のフランスは“ムウドンの丘”と同様の愛称だったのだ。そう命名したのは、なんと洋画家・金山平三その人だった。
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 さて、ここにいうアヴィラ(Avila)とは、もともとスペインの首都マドリードの西北約百キロに位する小邑で、画人の訪問の多い地らしく、特に金山平三らに好まれていたことは既述した。日本画家の中野風眞子は回想していう。
 「金山先生は私に、その頃『二の坂の上辺りは、アヴィラそっくりの地勢である。非常によく似ている。それで僕はアヴィラ村と命名した。』と語られたことがあった。しかし肝腎の役所方面には通用せず、ほんの一部の人しか覚えないで消えうせる運命になっていた。・・・(後略)                                                               (飛松實『金山平三』日動出版・1975年より)
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 同書によれば、二ノ坂界隈を開発したのは箱根土地ではなく、東京土地だと記されている。もっとも、箱根土地から宅地を購入したという地元の証言もあるので、すべての開発が東京土地の仕事かどうかは判然としない。
 
 佐伯祐三は1926年(大正15)10月15日、第二文化村の南西に拡がる目白崖線の斜面までやってきて、そこが別名「アビラ村」あるいは「阿比良村」と呼ばれていたことを、すでに間違いなく知っていた。そして、その斜面のどこかにイーゼルをすえて、『下落合風景』の1作を描いている。以前の「目白風景」Click!「上落合の橋の付近」Click!ともども、佐伯祐三は地名にことさら敏感に反応しているようにみえる。

■写真上:旧家から見つかった「阿比良村平面図」(全)。1925年(大正14)前後の制作か。
■写真中上:図面資料にはっきりと残る「阿比良村平面図」の文字と、島津邸案内図に記載された「アビラ村経営地」の文字。島津邸案内図には、西武電気鉄道はいまだ描かれておらず、妙正寺川が「小川」と記載されている。
■写真中下:高精細スキャニングとOCRソフトを応用した、画像解析の「アビラ村の首(道)」。
■写真下:東京土地の宅地造成部隊の仕事と思われる、「アビラ村」の大谷石による擁壁群。