中村彝と佐伯祐三の接点。 [気になる下落合]
中村彝と佐伯祐三の接点は、はたしてあったのだろうか? さまざまな彝本や佐伯本を読んでも、ほとんど触れられていない。でも、佐伯は彝の影響を色濃く受けていたようだ。下落合にアトリエを建てた翌年の1922年(大正11)、24歳の佐伯がさかんに「中村彝」の名前を口にするのを、美術学校へ通う周囲の友人たちが耳にしている。特に、レンブラントやセザンヌなどに話がおよぶと、佐伯の口から必ず「彝」の名前が出たようだ。そして、ルノワールの表現を意識した彝の『エロシェンコ氏の像』Click!(1920年・大正9)は、観たとたんに佐伯の頭から離れなくなり、美術学校の卒業制作にも強い影響を与えている。
佐伯が描いた1923年(大正12)の作品に、写真上の『裸婦像』がある。とても佐伯祐三の作品とは思えず、おそらく彼の生涯でもっとも明るい画面なのだが、このころまで彝の強い影響を引きずっていたらしい。中村彝は、ルノアールの作品を今村繁三邸Click!などで模写させてもらい、下落合の画室の壁に何枚か貼りつけていたが、佐伯の『裸婦像』はその習作を観るような趣きだ。
もし、このふたりが出会っているとしたら・・・。出会う可能性は、佐伯祐三が下落合へアトリエを建て、中村彝が死ぬまでのわずかな期間に何度かあったのだけれど、訥弁でシャイな佐伯と、もともとは実直な性格のようだが病気で過敏となった彝とでは、スムーズな会話が成立しなかったかもしれない。お互い、曾宮一念や藤島武二、酒井億尋など共通の友人知人がいたにもかかわらず、まるで会合周期が合わない惑星のように、ついに出会えずじまいだったのだろうか?
実は、中村彝アトリエへ通う、佐伯祐三の様子を記録した資料が出てきている。コレクションの絵は「贋作」というレッテルを貼られたが、佐伯米子の手紙は不思議にも真筆と鑑定され、しかも佐伯の「巴里日記」もどうやらホンモノらしい・・・とされる、「吉薗資料」の日記だ。それによれば、佐伯は結核医の牧野三尹医師つながりで、中村彝のアトリエを何度か訪問している。
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佐伯にとって中村という画家はよほどの人らしく、一言も喋らず、只、頭を下げるだけであった。
(略/中村彝から)「どうぞー、いつでもここへ来て勉強もしてくれていいですよ。デッサンの材料ならいくらでもありますし」と云われると佐伯は躰が動けないほど緊張していた。
(略)中村氏はアトリエのすみに坐っていたら椅子を使うように云われたと(佐伯は)感激した様子。
(略)「今日、もう一ぺんだけ中村先生とこつれていってくれへんやろか」と云った。
(匠秀夫『未完・佐伯祐三の「巴里日記」』より/1919年・大正8年5月~6月)
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これによれば、佐伯が中村彝のアトリエへしばらく通いはじめたのは、1919年(大正8)5月29日からということになっている。つまり、佐伯が下落合へアトリエを建てて引っ越してくる以前のことだ。
佐伯祐三は中村彝の死後、彝アトリエの周辺にイーゼルをすえて『下落合風景』Click!を描いた形跡はない。曾宮一念邸があった、諏訪谷Click!の谷間や薬王院Click!に取りついただけで、それよりも東側の作品は、いきなり山手線ぎわの「ガード」Click!や「目白風景」Click!となってしまう。佐伯にとっての「中村彝」は、ある時期に登坂したひとつのジャンダルムのようなもので、彼の背中を追いつづけることはなかった。まるでローマ文字の「Ⅹ」のように、ふたりはある時期の一瞬だけ表現上の交わりを持ち、やがてはまったく違う方角へと走り去ってしまった。
朝日晃『佐伯祐三のパリ』に、次のような一文がある。
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佐伯は、あくまで曽宮を介し、また作品から理解した中村彝であり、残念ながら直接の会話はない。しかし、彝の光に対するヨーロッパの画家たちの心理的理解は、時間をおかず、佐伯祐三の心の奥に居座り始める。畏敬に加えた親密の眼は、共通する結核、あるいは喀血という十字架を背負った死を前提とする人間、作家のおもいの方が強かったのかも知れない。 (「Ⅳパリへの序章」より)
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また、曾宮一念と佐伯祐三は、家族ぐるみの付き合いだったようだ。「制作メモ」の「曾宮さんの前」Click!は、曾宮邸も含めて描いた『下落合風景』ではなかったと思われる。中村彝と佐伯祐三をめぐる接点、さて、いずれが事実なのだろうか?
中村彝がもう少し出歩けるほど元気でいてくれて、下落合の「目白風景」Click!(『目白の冬』など)の連作を残してくれたら、佐伯祐三の『下落合風景』とはどのようなコントラストを見せてくれたものか。佐伯の“暗い”それとは、かなり異なる「下落合」のイメージを見せてくれたに違いない。 最近、下落合がどんよりと曇ったり雨が降ったりすると、わが家では「サエキの天気」というようになってしまった。
■写真上:佐伯祐三『裸婦像』(1923年・大正12)。
■写真中:中村彝『少女裸像』(1914年・大正3)で、モデルは新宿中村屋の相馬良(黒光)の娘・俊子。彝アトリエと佐伯アトリエは、直線距離でわずか700mほどしか離れていない。
■写真下:左は、中村彝『自画像』(1916年・大正5ごろか?/講談社野間記念館蔵)の部分。右は佐伯祐三『自画像』(1923年・大正5/東京芸術大学資料館蔵)の部分。
はじめまして。
佐伯祐三に関する記事、とても興味深く拝読させていただきました。
私事ですが、
20年程昔、学生だった数年間に佐伯祐三に夢中になっていた時期がありまして
下落合のアトリエや大阪の実家(幼稚園と寺)へとお墓参りへ行った思い出があります。
画家を目指していた訳でもない私が祐三氏とその実兄が共に眠るお墓に合掌した時に
なぜだか「ありがとうございました」という気持ちになったのはきっと彼の絵から
どうしても感じてしまう何かがあったからだろうと思います。
彼の絵の前に立つと万年猫背の私は今でもビシッ!と背筋がのびます。
by なおき (2006-09-15 02:05)
はじめまして。
わたくしも、大変興味深く拝読させていただきました。下落合で重なる画家たちの軌跡、その物語に引き込まれていきます。
by 紹興五年 (2006-09-15 08:39)
bongeさん、はじめまして。コメントとnice!をありがとうございます。
ほんとうは、日本橋界隈の埋もれた物語を発掘しようと始めた下町ブログのはずだったのですが、いま住んでいます下落合に眠る物語の魅力にすっかりつかまり、この丘を歩いた画家や作家たちの軌跡に捉えられてしまいました。
特に、大正~昭和初期の目白・下落合界隈の風情を伝える、中村彝や佐伯祐三、少し遅れて松本竣介などの作品群は、ちょうどそのころに生まれたこの界隈の物語とあいまって、書いても書いても尽きないテーマが無数に眠っています。そんな物語を少しずつ書いて、記録していけたらと考えています。
bongeさんのブログを、拝見させていただきました。とてもステキですね! しばらく、時間を忘れて見とれてしまいました。
by ChinchikoPapa (2006-09-15 11:34)
紹興五年さん、ようこそ。そして、コメントとnice!をありがとうございます。
最近、「下町の物語はどうした?」とお叱りを受けるのですが、しばらく“下落合物語”がつづきそうです。(^^;
資料調べや取材を重ねていますと、以前書いたことに錯誤が生じたり、想像で書いてしまった部分がはっきりしたり・・・と、記事を修正をしなければならないケースが出てきます。気がついたところは、できるだけ直すようにしているのですが、生来不精な性格ですのでそのままにしている箇所もあったりします。なにか、お気づきの点がありましたらご指摘ください。
以前から、「目白文化村」の手描き地図で、「佐伯アトリエの南にある不動谷の道が1本多い!」とお叱りを受けているのですが、図版の作り直しににりますのでサボッていたりします。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-09-15 11:45)
はじめまして。紙の博物館で学芸員をしているものです。このたびの企画展で中村彝をはじめ下落合関係の画家では曾宮一念 大久保作次郎 佐伯祐三 などを展示することになりました。こちらのブログがなければ分からないことだらけで、大変産考にさせていただいていますが、ご挨拶が大変遅れました。何か不適切なことがあればどうぞご指摘ください。
期間中に中村彝に関する講演会などもありますのでどうぞよろしくお願いいたします。
これからも こちらのブログ楽しみにしていますのでどうぞよろしくお願いします。
by kamihaku (2010-09-05 11:25)
kamihakuさん、コメントをありがとうございます。
わっ、下落合の画家たちの作品がまとめて鑑賞できそうですね! ぜひ、わたしも都電に乗って、おうかがいしたいと思います。w また、こちらの拙記事が少しでもお役に立つのでしたら、ご自由にお使いください。
中村彝アトリエの保存が決まりましたので、また彝がらみの記事も書かなければ・・・と思っているのですが、この地域に住んでいた画家があまりにも多すぎて、次々と目移りしてしまいます。^^; 近々、満谷国四郎と鶴田吾郎、そして曾宮一念アトリエの北西隣りにアトリエをかまえた蕗谷虹児について書いてみたいと思っています。
わざわざご丁寧に、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2010-09-05 17:40)