目白文化村と第四府営住宅との境界あたりに、大正末か昭和の初めごろ児童遊園地が造られた。遊園地といっても、現在のようにいろいろな遊具が設置されているわけではなく、ただの原っぱだったらしい。近所の子供たちは落合尋常小学校を終えると、さっそくこの遊園地を集合場所にしてキャッチボールや鬼ごっこなどさまざまな遊びを楽しんだようだ。第一文化村の西外れ、オバケ道Click!の近くに遊園地はあった。
 ある日、この遊園地に妙な学生が姿を見せた。学生帽をかぶらず、詰襟に金ボタンの黒い学生服姿で現れたのだが、子供たちの目を引いたのは学生が手にした飛行機の模型だった。今日のようにプラモデルなど存在しなかった時代だから、ことさらめずらしかったのだろう。学生は、「オーイ、みんなおいで・・・飛行機の話をするから・・・」と言うと、集まった子供たちを前に手にした精巧な模型を見せびらかしはじめた。特に男の子たちは、模型にクギづけになっただろう。
 
 飛行機の模型をいろいろな角度から見せながら、学生は飛行機にまつわる面白い話をたくさんしたようだ。名取義一の『東京・目白文化村』(1992年)によれば、「キミたち! 飛行機を知っているかい。これからは空の時代になるんだ。飛行機に乗れば、どこにでもゆけるんだ」と、近未来にやってくる「空の時代」の話をしていった。子供たちは、さっそく「ヒコーキ」というあだ名を付けたかどうかはわからないが、この学生の友人たちからは文字どおり「ヒコーキ」というニックネームで呼ばれていた。子供の印象に強く残っている出来事なので、学生が遊園地へとやってきたのは、一度や二度ではなかったのかもしれない。
 学生の名前は木村秀政。戦後は工学博士で日大教授となり、のちに日本初の国産旅客機の設計に携わることになる。一高理科から帝大の航空学科へ進んだ当時、彼は倫理学を講義していた安倍能成の教え子でもあった。第二文化村にあった安倍邸Click!の南西側、金山平三Click!アビラ村Click!と名づけた斜面に建つ、島津邸の住み込み家庭教師として暮らしていたころのエピソードだ。木村は、なぜか飛行機模型を手に島津邸を出ると目白文化村あたりを散歩しながら、子供たちが集まる児童遊園地へとやってきていたのだろう。木村が設計した旅客機とは、つい先月、日本の空から引退したばかり、双発プロペラの名機といわれたYS-11だ。

 戦後、日本はGHQの命令で国産飛行機の開発・製造は全面禁止されていた。それがようやく解除されるのは、1957年(昭和32)になってからだ。当時の政府は、さっそく国産による民間輸送機(旅客機)の開発・製造を計画した。通産省は(財)輸送機設計研究協会を設立し、その専任理事として木村秀政を招聘することになる。そして産みだされたのが、なんと今年の秋まで日本の空を飛びつづけることになったYS-11だった。先月、9月30日の日本エアコミューターによる沖永良部空港-鹿児島空港の運行が、YS-11最後の旅客フライトとなった。実に40年以上も現役で飛行した、世界でもまれな旅客機だ。

 木村は下落合がよほど気に入ったのか、その後もずっと目白文化村の周辺に住みつづけ、1986年(昭和61)の秋に亡くなっている。はたして、木村の設計したYS-11は、子供たちが夢みた文化村やアビラ村の上空を、翼を光らせながら飛行しただろうか?

■写真上:児童遊園地があったと思われる、第四府営住宅と第一文化村の境界あたり。空中写真に見える空き地の半分は、いま十三間通り(新目白通り)にかかっている。
■写真中:左は、1936年(昭和11)の児童遊園地があったと思われる、第四府営住宅と第一文化村の上空。はっきりとは確認できない。右は、旧・下落合4丁目にあった木村秀政邸あたり。
●地図:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」で想定する、ヒコーキ兄さんの散歩コース。
■写真下:プーケットエアのYS-11。日本の航空会社からは引退したが、海外ではまだ現役だ。