中村彝のアトリエがある林泉園にほど近く、同じ下落合の近所に住んでいながら、数えるほどしか顔を合わせなかった洋画家に満谷国四郎がいる。彝アトリエClick!から、直線距離でわずか300mほどのところ、野鳥の森公園の北側にアトリエがあった。ちょうど、九条武子邸Click!とは斜隣りとなる一画だ。しかも、下落合へ転居する前は日暮里にいて、そのときも中村彝の近所に住んでいた。そして、1916年(大正5)に彝が下落合へアトリエを建てると、ほどなく満谷も下落合にアトリエを建設して引っ越してくる。お互い意識していたわけではなさそうなのだが、不思議なめぐりあわせだ。
 このふたりは、ともに太平洋画会の研究所に属していたのだけれど、満谷は太平洋画会の創立メンバーのひとりであり、また彼が10歳以上も年上のせいで、彝は近づきにくかったようだ。満谷は早くから文展の審査員もしていて、当時の彝にしてみればいつも教えを乞う“先生”のような存在だったのだろう。目白駅へ向かう途中で、偶然にルノアール展(谷中の美術院展)帰りの、「霜降りの背広」を着た彝にバッタリ出くわした以外に、満谷は彝のアトリエをわずか数回訪問しているにすぎない。一度めは、彝がルノアールに傾倒している時期。そして、2日つづけて訪問することになる再訪は、彝が晩年に完成させた『自画像』(1923~24年・大正12~13)が評判になったころだ。彝は、近所にもかかわらず満谷のアトリエを訪ねてはいない。
 
 1925年(大正14)に出版された、『木星』2月号の「中村彝追悼号」で、満谷国四郎は晩年の彝の様子を次のように述懐している。このとき、満谷も中国から帰ったばかりのころで、大きく作風が変わろうとする時期にあたっていた。満谷は、自身の最新作を彝のアトリエに持ちこんで、お互いの近作について批評し合ったのだろう。そのとき、満谷が持参した5~6点の作品が、どの絵だったのかまではわからない。少し長いが、その箇所を引用してみよう。
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 (前略)ふと或る雑誌に近作の自画像が口絵になつて居るのを見て、其の作風の変つたのに驚きながらも、製作に耐へる健康に成られたのを喜んで行つて見た。変化してからの近作について意見を交換してみたが、要するに試作的のもので、色も干いて居たし、随分研究の余地のあるものと思はれたが、自分は和製カンバスの為めではあるまいかと言ふた事だ。其の時に彝君は自分の周囲に見る作の、質的に変化のない事を心細がつて居たので私は少し出過ぎた事だと思ふたが、丁度私が支那から帰へつた時だつたので、小品五六点を其の次の日に持つて言つて見せた事がある。久し振りで私の画を見て大変喜んで居られたので、私も非常によい慰めをしたと思つた事だ。
                          (満谷国四郎「中村君と会つた時々の思ひ出」より)
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 満谷は彝の絵を観て「ウマイ人だ」と、早くから記憶にとどめていたようだ。彝が房総半島へ出かけて描いた布良(めら)の風景、『海辺の村(白壁の家)』(1910年・明治43)は同年の第4回文展へ出品され3等賞に入選するが、この作品を初めて見せたのが、他ならない満谷だった。彼は彝に「入選間違ひなし」との感想を伝え、大急ぎで出品するよう奨めている。締め切りギリギリになって出品された『海辺の村(白壁の家)』が入選したことで、中村彝が世に出る第一歩となった。
 
 満谷は特に彝と親しくはなかったが、なぜか突然、吸い寄せられるように彝アトリエを訪問している。彝が周囲の人間を、ことさら惹きつける理由を、彼はこんなふうに書いている。
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 一体君は自信の念に強い人だけに、周囲によく来る人達に感化を与へる力も強く、一時は鑑査場でも中村スクールの語があつた位だ。 (同書より)
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 満谷国四郎が、彝と作品を見せ合って意見交換をしたあと、1924年(大正13)の暮れにもう一度、彼は彝アトリエを訪問している。彝が息絶えた、通夜の晩のことだった。

■写真上:下落合に残る、中村彝アトリエの近影。
■写真中上:左は、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)に見える、子安地蔵通りに面した下落合753番地に建つ満谷国四郎アトリエ。右は、1936年(昭和11)の同地上空。ちょうどこの空中写真が撮影された年に、満谷国四郎は死去している。
■写真中下:左は、1925年(大正14)に出版された『木星』の「中村彝追悼号」。右は、第4回文展へギリギリに出品され3等賞に入選した、『海辺の村(白壁の家)』(1910年・明治43)。
■写真下:左は満谷国四郎『車夫の家族』(1908年・明治41)、右は同『行水』(1915年・大正4)。