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約束の刻限に野を越え山越えて? [気になるエトセトラ]

 日本橋周辺を散歩すると、立ち寄る機会が多いのが小伝馬町の十思公園だ。ここはもう言わずと知れた、小伝馬町の牢屋敷跡。各種牢屋敷に土壇場のある斬場(きりば=処刑場)、罪が重大で死罪ののちに様物(ためしもの)が追加されれば(男のみ)、委託された刀剣の斬れ味を試す様場(ためしば)まで設けられていた。この界隈は、東京大空襲でも焼けずに残ったので、いまでも古い建物を見ることができる。
 江戸の牢屋敷は、最初は常磐橋外の日本銀行本店がある付近に建てられたが、日本橋の市街化が急速に進むにつれ、繁華街の中に拘置所があるような風情になってしまい、1613年(慶長18)に早くも小伝馬町へ移転している。そして明治に入り、1875年(明治8)に市谷監獄へと移転するまで、実に262年間も小伝馬町に牢が設置されていた。小伝馬町の牢屋敷の詳細は、藤沢周平の著作(『獄医立花登手控え』シリーズ)その他に詳しいので、そちらをお読みいただければと思う。
 市谷監獄に牢が移ると、小伝馬町はすでに繁華街に囲まれていたので、大倉喜八郎と安田善次郎に払い下げられた。彼らが寄進した寺が、苗字の1字ずつをとった大安寺(新高野山)だ。さっそく再開発が行われたけれど、当然のことながら商店地にしても住宅地にしてもなかなか売れない。「二束三文だったとき、買っときゃよかった」・・・とは、長谷川時雨Click!の親父さんの述懐だが、あまりに土地が売れないので当初はタダ同然の値段だったようだ。その後、牢屋敷の記憶が薄れるとともに、まがりなりにも日本橋Click!界隈なので大きく値上がりしたらしい。いまの見延別院(牢屋の御祖師様)の建っている位置が、西の大牢があったところ。
 
 でも、十思公園のあたりは、牢屋敷が消えてから131年もたったというのに、いまだなんとなくくすんで見える。どうしても売れなかった土地には、寺や学校、公園などが建設された。これだけ大規模な牢や刑場があったにもかかわらず、昔から幽霊話は意外に少ない。800年前の鎌倉には、この手のフォークロアがごろごろしているのに、小伝馬町は案外静かなものだ。
 余談だけれど、大江戸に大火事が起きると、牢屋敷に収容された囚人たちは一時的に解き放ちとなった。牢が焼けなければ約束の刻限に牢屋敷の門前へ、牢が焼けてしまったら本所は回向院門前へ集合するよう、牢役人から厳命されていた。時代劇を観ていた親父が、ときどきこぼしていたことがある。「暮れ六ツまでに、確かにもどってくるのだゾ」と解き放ちになった囚人が、なにかの都合で約束の刻限に遅れそうになる。たいがい恋しい女への未練か、悪人どもの妨害のせいなのだが、あわてて疾駆しながら、小伝馬町の牢屋敷か本所の回向院の門前へと向かうけれど、なかなかたどり着けない・・・というシーンだ。
 たまに「町人、まてぃ!」とかいって、囚人が無事に牢へもどれてしまうと都合が悪い悪人たちが差し向けた、素浪人の殺し屋なんかが待ちかまえていたりするからやっかいだ。このとき、ちょうど暮れ六ツの鐘が鳴りはじめたりして、必死で走りつづける囚人は野を越え山を越え、ときには深い谷間の渓流も越えて約束の刻限に間に合おうとする。まるで走れメロスの世界なのだけれど、そんなときTVを観ていた親父がポツンと吐き出すようにひと言、「伝馬町も本所も、いってえどこの山ん中にあるってんだ!」・・・。小伝馬町は日本橋、本所は両国橋の東詰め近くなので、地面が平坦なのはいうまでもなく、江戸後期ともなればもっとも賑やかな繁華街の中枢近くには違いない。いまの感覚でいえば、銀座か新宿東口のちょい外れ・・・ぐらいの位置づけだろう。

 牢屋敷を舞台にした芝居に、黙阿弥の『四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)』がある。通称『四千両』と呼ばれる本作は、こともあろうに千代田城の御金蔵が盗賊に破られて、二千両箱を2つも盗まれた実話にもとづいている。幕府は事件をひた隠しに隠したけれど、ウワサはあっという間に市中へ広がった。さっそく芝居にでも書かれて、世間の物笑いになることを怖れた幕府は、この事件の舞台化を早々に禁じてしまった。30年後、事件を芝居にするために、黙阿弥は実際に入牢した経験のある人物(田村成義)に取材して台本を書いているので、小伝馬町の牢屋敷の場はことさらリアルな舞台となったようだ。そのせいか、この芝居は上演とともに大当たりをとり、のちに尾上菊五郎や中村吉右衛門が盛んに演じている。
 いま、時代劇や小説などで描かれる牢内の様子は、ほとんどがこの『四千両』を種本にしている。畳を重ねた「牢名主」をはじめ、「隅の隠居」や「二番役」や「三番役」といった役付きたちの存在、そして彼らの役目の詳細は、黙阿弥の『四千両』にかけた取材によって初めて明らかにされた牢内の光景だ。同じ芝居では、沙羅双樹が原作で村山知義Click!が台本を書いた『獄門帖』があるが、ここで描かれた大牢の様子も、すべて『四千両』の舞台をベースとしている。
 
 十思公園には、大きな桜の木が何本も植えられている。周辺にある3つの寺、大安楽寺も御祖師様も、子育鬼子母神もみな線香の煙は絶えないけれど、どこかのんびりとした雰囲気さえ漂っている。でも、桜の季節に出かけても、心なしか花が色褪せて見えるのは気のせいだろうか?

■写真上:十思公園の入口。日本橋石町の時の鐘を眺めながら、一服するのも楽しみのひとつ。
■写真中上は、尾張屋清七版『日本橋北/内神田/両国浜町明細絵図』(1859年・安政6)。牢屋敷が、小規模な掘割りで囲まれていたのがよくわかる。は、1950年代の十思小学校。
■写真中下:『四千両小判梅葉』で再現された牢内。戦後の舞台写真だが役者は不明だ。
■写真下は、十思公園の桜。は、元・十思小学校の十思スクエア。大震災後の典型的な復興小学校のデザインをしている建物は、いまは中央区の福祉事業の拠点として使われている。


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かもめ

 小網神社近くに24年勤めたことがあり、人形町通り周辺、なつかしく思い出しながら読みました。細い道が網目のように通って、歴史を刻んだ石碑が角々に立っていましたね。同僚の家が元置屋さんでして、当時のままの内部を見せてもらいました。
 牢内の様子は日光江戸村(笑)でみました。格子は時代劇でみるより太く、中に漬物樽だの厠だのがあり、生活臭が漂っていましたっけ。身分によって処遇もかなり違っていたようです。
 それほど強権的な治安制度ではなく、市民生活を考慮した処罰だったと思われます。 
by かもめ (2006-11-20 12:29) 

ChinchikoPapa

風向きからでしょうか、小伝馬町と人形町あたりは東京大空襲による延焼をなんとかまぬがれ、こちらの方面へ逃げたうちの家族が助かっていますので、反対側の大川へ逃げた人たちの多くが助からなかったことと併せて、ずいぶん親からこの町のことを聞かされた憶えがあります。近くの目白文化村にも、人形町のご出身の方がいらっしゃいまして、戦時中のことをおうかがいしますと真っ先に「人形町は助かった」と言われたのが印象的でした。かもめさんおっしゃるように、網の目のような細い道が入り組んでますので、飛び火をしていたらひとたまりもなかったでしょうね。
日光江戸村に牢屋敷が再現されているとは、まったく知りませんでした。今度出かけて、ぜひ入牢してこなくては・・・。(笑) 
by ChinchikoPapa (2006-11-20 13:08) 

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