左の写真は、1960年代の目白通りだ。当時の下落合3丁目あたり、現在でいうと中落合3丁目を走る目白通り。正面に見える住宅街へと入っていく道が、第一文化村の入口だった大正期の箱根土地本社敷地の北西角へと抜ける道、松下春雄が描いた『下落合文化村入口』Click!の左手の道へと抜けることができる。戦前、この道の両側には、明治末に建設された第二府営住宅がびっしりと建ち並んでいた。
 手前車線のクルマは動いているようだが、向こう側の車線はどうやら渋滞しているようで、黒い乗用車の高品格に似たドライバーは、「いったいぜんたい、どうしちまったってんだい。これじゃ、水道塔の取り引きに遅れちまいますぜ」と言っているようだ。後部座席から前に身を乗り出している、なぜか頬が異様にふくらんだ男は、「どうもこうもねえ。だから言わねえこっちゃねえんだ。チェッ、俺様が遅刻するとは、カミソリのジョージと呼ばれたこの名前が泣くぜ」とイラつき、助手席の帽子をかぶった金子信雄似の男は、「このままじゃ、あのギターを持った妙な野郎に、先を越されちまうじゃねえか。おい、なんとかしろい。・・・おやっ、事故か? お巡りがうろうろしてやがる。おいジョージ、拳銃をしまえ。左へ折れて、文化村からずらかろうぜ」・・・と、オロオロしているのだろうか?
 目白通りは、山手通りの交差点をすぎると、いまも昔もグッと狭くなる。目白駅に近い部分は、昭和初期から拡幅が進み複数車線が確保されていたようだが、山手通りから西は、基本的に現在でも昔の道幅とほとんど変わっていない。戦前から、かろうじて数メートルの歩道幅が確保され、両側の家々や商店がセットバックして拡げられているにすぎない。だから、山手通りの交差点をすぎると、いまも昔も渋滞が起きやすいのだろう。

 1955年(昭和30)の『新宿区史』によれば、戦前から、幹線道路は剛質舗装=セメントコンクリート舗装をされていたが、戦後は物資不足でていねいな再舗装やメンテナンスができなかったらしい。そこで、GHQから大量のアスファルトを放出してもらい、少しずつ融解アスファルト舗装に切り替えていった様子が記録されている。さらに、1953年(昭和28)になると米国から大量のアスファルトが輸入され、道路修復工事は一気に進捗している。ただし、現在の新宿区を形成する旧・牛込区/四谷区/淀橋区の3区の中では、落合地区を含む淀橋区の幹線道路の舗装率が60%ともっとも低かったようだ。特に淀橋区の西北端に面していた落合地区は、ターミナルとして早くから発達した新宿駅周辺に比べたら、かなり舗装時期が遅れたのではないか。
 
 さらに、古い写真をお借りできた。ひとつは、目白通り沿いだろうか、物件情報が窓ガラス一面に貼られた、不動産屋とみられる店の前でのスナップショット。クルマには、「DATSUN1000」というロゴが見えるので1950年代(昭和25~35)の写真だ。「チョコラの」と荷台に書かれている、右側の小型トラックも気になる。「チョコラの」・・・いったいなんなのだろうか? わたしの世代だと「チョコレートは明治」なのだけれど、「チョコラのコビト」かな?
 もう1枚が、目白文化村を走るスクーター。こちらも、同じぐらいの年代だろうか。文化村の中に、土手状のヤブのような区画が残っているのがめずらしい。でも、ちゃんとヤブ土手の下には、大谷石による几帳面な築垣が見えている。そういえば、『落合新聞』の竹田助雄Click!も、起伏の多い下落合をスクーターであちこち取材してまわっていた。
 スクーターを持っていないわたしは、下落合をトコトコと歩きまわっているのだけれど、あまりに過度にバッケ状の坂道を何度も上り下りしすぎると、ときどき腰の筋を痛めている。疲れるけれど歩きたくなる町、それが下落合なのだと思う。

■写真上:左は、目白通りから見た「文化村入口」へとつづく道。右は、現在の同じ道を同じ位置から撮影。通り沿いに連なっていた商店が消え、次々とマンションに建て替えられている。また、「文化村入口」道の正面には、山手通り沿いの高層マンションが見える。
■写真中:戦後間もない目白通りの様子。工事中を示す標識が、道路の中央に見えているのでアスファルト舗装直後だろうか。道幅から、かなり目白駅に近い場所だと思われる。右手の歩道に警官らしい人影が見えるので、戦前から交番のあった目白福音教会のあたりだろうか。いま、この交番を統廃合する問題で揺れている。大正期からつづいた、下落合でももっとも古い交番のひとつだ。
■写真下:左は、当時の人気車種「DATSUN1000」とのスナップ。アイマスクで危ない写真になってしまった。右は、文化村を走るスクーター。いずれも、1955年(昭和30)前後の光景だと思われる。