曾宮一念Click!は、山岳の専門誌『アルプ(Alp)』(創文社)にずいぶんエッセイを残している。でも、彼は登山を趣味にしていたわけではない。山登りの趣味は、友人の鶴田吾郎Click!のほうだろう。曾宮には、1943年(昭和18)に生まれた長女の夕見様Click!がいる。娘のほうが、野山や石仏に興味を持って、やがては山登りをするようになったのだろうか。
 曾宮一念と夕見様が、そろって『アルプ』にエッセイを書いている号がある。その中で、夕見様のほうは嬉々として山々の情景を書き、ときに訪れた山々の写生画なども掲載している。それに対して父親のほうは、「わたしは山登りをしないが・・・」といちいち断りを入れて文章を寄せているのが微笑ましい。ただし、遠くから山を眺めたり、山々を描くのは好きだったようで、曾宮一念の作品には山が描かれているものも少なくない。ときに、山にかかる雲の様子をジッと飽かずに観察するのも好きだったようで、気象用語ではない彼独自の雲の名称を考案したりしている。
 曾宮は、下落合にいた時代から山を見つめていたようだ。関東平野の南部に位置する、下落合から目立って見える山らしい山といえば、もちろん富士山と丹沢山塊だ。1981年(昭和56)に発行された『アルプ』6月号の中で、彼は下落合時代をふり返ってこんなことを書いている。
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 昭和の初年、私は落合の庭で一坪の小屋に寝起していた。長明の方丈よりもよりも狭い。ここから西南相模の山波の上に小さく富士が望まれた。但し冬で早朝は雪の白に暁の色を帯び、夕は紫に見えた。珍しいことに年末から正月の約十日間は夕日が富士頂上に入ることで、山の紫は逆光のためである。このような夕方には頂上から一筋の雲が赤く東に靡いている。雲の少ない季節に富士に雲がかかるのを不思議に思ったら、それは西風に吹き飛ばされる雪煙であると教えられた。今でもこの季節の朝夕には山ノ手線の大久保、代々木の高いホームで見えるかと思う。
                                  (曾宮一念「富士と八ヶ岳の雲」より)
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 昔の下落合では、冬になるとほぼ毎日といっていいほど富士山が鮮やかに眺められただろう。以前、目白文化村シリーズを連載しているとき、下落合から見える富士山Click!については書いている。文化村の家々の2階から、白く雪化粧した富士山がよく見えたようだ。光り輝く東京湾までが見わたせたことを、目白崖線上のそこここでお話をうかがう。いまでは、さすがにビル群に邪魔されて東京湾までは見えないけれど、富士山はちょくちょく見ることができる。
 そういえば、江戸から明治にかけての絵師たちのように、東京から富士山を描いた絵をほとんど見ない。あまりに通俗的な画材なので、あえて敬遠されてしまったものか、それとも、いつでもあたりまえのように“そこにあるモノ”として、かえって顧みられなくなってしまったものか・・・。
 曾宮一念ではないが、東京から見える富士山は決して大きくはないけれど、かたちがすこぶるいいと身びいきに感じるのは、あまた描かれた江戸の絵師たちの仕事のせいなのだろうか?

■写真上:左は、曾宮夕見ス様のケッチ『雑木のトンネル』(1981年・昭和56)。興津(静岡県)から眺めた、薩埵峠あたりの山並みを描いたもの。右は、1981年(昭和56)の『アルプ』6月号。
■写真下:曾宮一念がエッセイの中で書いている、下落合から眺めた富士山頂に沈む暮れから正月にかけての夕陽。この美しい光景を目にすると、江戸東京でことさら富士講Click!が盛んだったわけが、ストンと素直に納得できてしまう。(撮影:武田英紀氏)