この『下落合風景』は、明らかに目白文化村の内部を描いている。道の左側の縁石沿いには共同溝が描かれ、電柱がこの道沿いに1本も存在しない。正面に見えている、電柱が林立している家々は、すでに目白文化村ではない。ということは、佐伯祐三はどこかの文化村の外れから、またしても外側へ向けて描いている公算が高い。道幅からすると、メインストリートの三間道路(5.5m道路)ではなく、文化村内へ入りこんだ少し細めの道だ。
 右手に描かれた、バンガロー風の藤棚のある洋館は、とてもコンパクトでかわいらしい。屋根はきっと、ビビッドな色(赤か青か緑)なのだろう。ガーデニングをしたくて、庭を広めに確保した設計なのかもしれない。ところが、左手に描かれた西洋館あるいは和洋折衷館は、外壁や窓のデザインから想定されるように、かなりどっしりとしていて巨大だ。一見、2階建てのように見えるが、屋根のかたちから屋根裏部屋も含めて、実質は3階建てではないだろうか? 道をはさんで向かい合ってはいるが、右手のバンガロー風住宅のほうが少し手前にあり、左手の洋館は少し奧に建っているように感じる。つまり、やや斜向かい気味で建設されているような印象を画面からは受ける。

 わたしは最初、以前にご紹介した第二文化村の遠景Click!に描かれた、西洋館の2軒ではないかと考えた。でも、よく観察すると、左の大きな西洋館の屋根のかたちや2階部分に見える窓の位置などが異なり、右の洋館の屋根のかたちもまた、かなり短めで異なっているのに気づく。そして、なによりも家と家の間のスペースが、第二文化村の北東端にあった邸宅とこの作品とでは、どうしても合わず違和感をぬぐいきれなかった。細めの道路を挟んだこの作品のほうが、かなりスペースに余裕がなくて双方の家が近接している。それに第二文化村なら、なによりも道の突きあたりに見える家々の風景が合致しない。
 左手の洋館の手前は、明らかに空き地のようだが、右手のバンガロー風住宅の手前は生垣がつづいているので、もうひとつ家が建っているのかもしれない。双方の邸宅の向こう側は、やはり空き地なのだろうか、家の影が見えず、少し離れた文化村敷地外にある住宅街が見えているようだ。道路際の共同溝や縁石は、少し先で途切れているように見える。右のバンガロー風住宅に設けられた、藤棚ないしは葡萄棚や、光線の当たり具合からすると、手前が南側に近い方角の可能性が高い。では、この風景はいったいどこなのだろうか?
 
 空き地が目立つところから、これは第二文化村か第三文化村ではないかと想定する。でも、近くに一般の住宅の家並みが見られるので、文化村の奥深い位置ではなさそうだ。ただ、第三文化村の場合は、スペースが他の第一・第二文化村に比べて小さく、一般住宅ともすぐに接していたので、まずはここからスタート。この作品に近い風景は、第三文化村でも見つかった。でも、手前が北側になってしまうのと、遠景の住宅街が一致しない。(正面の家々も、大きな邸宅が連なっていたはずだ) それに、1936年(昭和11)の空中写真で、第三文化村にそっくりな家並みを見つけたとしても、実際にそこに家が建てられていたかどうかは、他の2村に比べてさらに心もとない。念のために第一文化村も調べたけれど、これに該当する家並みも風景も発見できなかった。
 では、第二文化村はどうだろうか? たった1箇所だが、このような見え方をしたであろう区画と、家の配置を発見できた。第二文化村の北側外れ、もうすぐ「道」Click!「富永醫院」Click!「原」Click!などを描いた北側の道路に近いエリアで、以前にご紹介した「タンク」Click!のすぐ西隣りのポイント、下落合1665番地界隈だ。「タンク」が先に描かれたのか、この作品のほうが早いのかは不明だけれど、いずれにしても佐伯の足取りが想定できるようなポイントのひとつには違いない。ただひとつ残念なのは、『目白文化村』(日本経済評論社)に掲載された図版で、この両方の家が「洋風」または「和洋折衷」の意匠で記録されておらず、「日本建築」になっている点だ。ちなみに、同書の中で「洋館」あるいは「和洋折衷」とされている建物をひとつひとつ検証しても、この作品のような風景のポイントは存在しない。この矛盾は、残念ながら解けないままだ。
 
 もうひとつ残念なのは、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」に、これらの邸宅はいまだ記載されていない点。佐伯が第二文化村の「タンク」周辺を歩いた1926~27年(大正15~昭和2)当時、おそらくこの2軒のお宅とも竣工したばかりだったのではないだろうか。この作品で、佐伯がイーゼルをすえた背後はT字路となっており、それを左に曲がるとすぐに、第二文化村の水道タンクと、箱根土地の社員用住宅建設予定敷地のある十字路へと出ることができた。

 佐伯祐三は、目白文化村の中では、相変わらず第三文化村あるいは第二文化村の外周風景にこだわっているようだ。第三文化村は、自宅のごく近くであり、またお気に入りの「八島邸」Click!「八島さんの前通り」Click!があったので、描画点数が増えるのはごく自然に感じるのだが、第二文化村の外周は、いったいなにに惹かれ好んで描いたものだろうか? 古い意匠の日本家屋と、文化村のハイカラな住宅の対比とが面白かった・・・にしては、文化村の屋敷を描いた作品点数があまりに少なすぎる。ことさら、対比させているような構成の作品も見あたらない。そして佐伯は、いままで判明している『下落合風景』を観る限り、第一文化村と第四文化村をまったく描いてはいない。
 では、当時の佐伯としてはたいへんめずらしく、文化村のシャレた住宅をすぐ間近に描いたこの『下落合風景』を、描画ポイントClick!に加えてみよう。

■写真上:左は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。右は、現在の同所と思われる道路。両側から家が迫り出して、道幅が狭くなったものか。佐伯が描いた第二文化村の水道タンクとは、直線距離でわずか40mほどしか離れていない。
■写真中:左は、1936年(昭和11)の第三文化村上空。近似した建物が道路をはさんで2棟見えるが、北側からの描画となり、突き当たりの家並みの様子が作品とは異なる。また、バンガロー風住宅が作品の印象よりもかなり大きい。右は、現在の同所。いまでは、こちらのほうが雰囲気が似ているように感じられるが、道幅が広すぎる。
■写真下:左は、1936年(昭和11)の第二文化村上空。描かれてから10年後の姿なので、新たに住宅が増えていると推定されるが、ふたつの近似する建物が手前を南東に向けて建っているのが見える。「×」印は、1926年(大正15)以降に建設された家々か。右は、1947年(昭和22)の同所。道筋がわかり、各描画ポイントの位置関係がよく把握できる。
●地図:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。まだ家々が記入されていないが、この年の前後に建てられた新築の屋敷である可能性が、庭木の様子からもうかがわれる。