下落合に住んだ画家の中で、いちばん個性的なのは、いやハッキリ言ってすごく“変”で面白いのは、アビラ村Click!金山平三Click!だ。佐伯祐三もかなり“変”だが、金山の面白さにはまったく及ばない。その“変”なエピソードを挙げだしたら、それだけで半年ぐらいブログネタに困らないかもしれない。それだけで1冊の本ができてしまうだろう。
 なにしろ、友人から「障子を張りかえた」と聞くや、さっそく出かけていって、その家の子供たちといっしょに真新しい障子へ、ツバキをつけた指で次々と穴をあけては遊んでいたおじいちゃんなのだ。ちょっと想像を絶する非常識ぶりに、わたしは笑いが止まらない。審査を公開制にした帝展第二部会では、自分の大キライな審査員連中と顔を合わせて話をするのも嫌で、休憩時間になると同じ下落合界隈に住んでいた洋画家・牧野虎雄とキャッチボールをしていた。帝展の審査を終えて、どこかで懇談会をというような話になっても、「あんな奴らと一緒に、メシが食えると思っているのか!」と、さっさと下落合へ引き上げてきた。たまたま気に入らない人間と食事をするハメになると、うしろ向きに座りながらメシを食っていたエピソードさえ残っている。
 

 知り合いの画家の首を、粘土でこしらえていじりまわしていたClick!は書いたけれど、人形づくりはプロはだしで、人形劇に使うような小さなものから文楽の頭(かしら)、はては等身大の巨大なものまで、画業のヒマを見つけてはこしらえていた。実際に、子供たちを集めて人形劇を催したこともあったようだ。また、裁縫上手な金山は、着物を自在に仕立てることができたので、それらの人形たちには好きな着物を縫いあげて着せては楽しんでいた。100体以上といわれるこれらの人形は、現在では兵庫県立美術館に収蔵されているのかもしれない。
 あまりに根をつめて人形づくりをつづけるので、これでは身体に悪いと考えたらく夫人Click!が、身体を動かす踊りを勧めた・・・という経緯があるようだ。ほどなく、金山は踊りのとりこになってしまう。佐渡おけさをはじめ、磯節、伊那節、大漁節、串本節、木曽節、かっぽれ、相川音頭、両津甚句、日光和楽、会津磐梯山、八木節、琉球舞踊、東京音頭などなど、日本全国の民謡踊りを習い始め、ときには地方から下落合へ師を招いては練習し、それらの踊りはみんなプロはだしとなっていった。それに飽き足らず、西洋のダンスにまで手をのばしては、夫人と踊るのを楽しんでいたようだ。
 1969年(昭和44)の『絵』8月号に、山下大五郎は次のようなエピソードを紹介している。戦争中の疎開先でもあった、山形の温泉宿に泊まったときの目撃談だ。
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 又、先生の踊りは定評があったが、或る時風呂場の脱衣室で、一人、気持よさそうに踊っておられたそうである。実に楽しそうにしておられるので傍で見るのが悪いような気分さえするが、物珍しくて見るのではなくて、威厳に打たれ、見惚れると言った方が相応しかったそうである。廊下でもよく踊りながら歩かれたとのことで、まるで子供みたいだッス、とおさえさんは手振りをして笑いこけた。
                                       (山下大五郎「追憶」より)
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 疎開先の山形では、近所の子供たちを集めては踊り教室を開いていた。芝居人形といい民謡踊りといい、とても洋画家の趣味とも思えない。また、ボーザール(棒猿)座という一座を結成しては、アトリエで定期的に仮装芝居をしている。このハチャメチャ仮装劇のメンバーがまた奇妙で、同じ下落合の大久保作次郎Click!や江藤純平、柚木久太、小柴錦侍あたりは画家仲間なので納得できるのだけれど、大仏次郎や花柳章太郎、初代・水谷八重子、岸輝子とプロの俳優たちも参加している。新派のメインの役者ふたりが、下落合の金山アトリエで新劇(西洋劇)をやっていたなんて、にわかに信じられない出来事なのだ。
 ある日、金山アトリエのすぐ近くに住んでいたニットデザイナーの佐伯周子は、中井駅の踏み切りで両手両足をふんばり、通行人たちが笑いながら振り返るのも気にせず“通せんぼ”をしている金山じいちゃんに出会った。なにをしているのかと思ったら、彼女を見つけて通せんぼしていたのだ。佐伯周子は、妹の河合茂子とともに「日本編物学園」を起ち上げ、ご近所のよしみか金山平三とも知り合いだったらしい。いまでも、同学園は河合ニットデザイン専門学校Click!として、目白の成蹊高等女学校Click!の跡地で健在だ。佐伯周子が、金山アトリエを訪問したときの記録が残っている。
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 この日曜日に私は或る用件で友人と一緒に訪問しました。丁度おそい昼食中でしたが、夫人はおかもち(出前持ちの持ち歩く)の中に、食パンからナイフ、バター、小さい調味料入れ、紅茶の一切をしまって台所へさげるのでした。私達のすすめられた椅子は、空き樽に一つ一つ異う(ママ)端切れで作ったクッションが色よく配置されていました。大きなでんとした画室、寝室の他に、それぞれの部屋が数多くある南向き高台の邸宅です。  (佐伯周子「想い出のあれこれ」より)
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 食事を“おかもち”に入れて、テーブルに出したり片づけたりするのも、ちょっと不思議な光景だ。このあと、若い女性の来客を前に、金山平三はさっそく庭へ出て踊りを披露したのだろうか? アトリエ内は、かなり親しい友人にさえ絶対に見せず、寄せつけなかった金山のおじいちゃんなのに、この佐伯周子には気を許していたのか、アトリエを見学させたりしているのだ。

■写真上:左は、二ノ坂上にあるアビラ村の金山平三アトリエ。右は、アトリエから眺めた上落合方面。街の様子から、おそらくは1960年代後半ぐらいの風景だろう。
■写真中上:左は、諏訪湖でスケートを楽しむ若き金山平三(左)。スケーターズワルツが聞こえてきそうだ。右は、めずらしいアトリエ内部の写真。下は、金山が下落合字小上をアビラ(阿比羅)村と名づける元となったスペインのアヴィラ村の丘で、コッテが描く『アヴィラ風景』(1905~11年ごろ)。
■写真中下:左は、1930年(昭和5)にアトリエで開かれた、ボーザール(棒猿)座による第5回仮装劇の記念写真。新派の役者たちも見える。右は、同年に「ハンガリアの愛」を演じた金山夫妻。
■写真下:左は、アトリエの庭で志賀山流を踊る金山平三。中は、すべて金山自身が縫いあげた手づくりの金山人形。右は、イヌもいっぱいおったんじゃ!