下落合の近衛邸の敷地内には、近衛篤麿が中心となって設立した東亜同文会による東京同文書院Click!が建設されていたことは、以前にこのサイトでも触れている。その後、東京同文書院から留学生たちの姿が減り、余剰となった校舎や学校施設を活用して目白中学校Click!が設立されたこともご紹介した。でも、目白中学校がどのような様子だったのか、文章による記録は比較的多く残っているものの、学校の様子を記録した写真は限られたものしか入手できないでいた。
 ところが、中央大学付属高等学校の保坂治朗氏により、貴重な詳細資料『目白中学』(2001年)がまとめられていることを、ある方のご好意でつい最近知った。そこには、いままで目にしたことのなかった詳細な写真が掲載され、目白の校舎ばかりでなく練馬へ移転後の姿も克明に記録されている。保坂氏のお許しがいただけたので、貴重な写真の数々をご紹介したい。また、東亜同文書院が作成した明治末の会則の実物も入手した。こちらは、近衛篤麿が1904年(明治37)1月に死去した直後に刷り直されたもののようで、すでに会長が二代目の「侯爵・鍋島直大」、副会長が「子爵・清浦奎吾」に変更されている。
 
 1909年(明治42)の2月、創立者の細川護成と柏原文太郎は、文部省へ「私立中学設置認可願」を提出し、近衛邸内に建てられていた東京同文書院の留学生校舎を利用して目白中学校を設立した。それから16年間、1925年(大正14)10月に北豊島郡練馬村へと移転するまで、目白中学校は目白通り沿いの近衛邸敷地で、東京じゅうから生徒を集めつづけた。
 もっとも、この移転時期には異説があって、1926年(大正15)の秋だとする資料もある。なぜなら、同年の夏に練馬の移転地で校舎建設の地鎮祭が行われている写真が現存するからだ。同年の夏まで、練馬に校舎が移転していないとすれば、前年の移転記述は近衛邸の売却が決まった直後の、「移転決定」の時期ではなかろうか? この問題については、近衛邸敷地の売却問題と絡めて、改めて書いてみたい。





 目白駅から徒歩5分という地の利もあってか、目白中学校の人気は年々高まりつづけ、また全国中学野球大会(現・全国高校野球大会)では早稲田実業と優勝を争うまでになり、受験人気は一気に沸騰した。でも、近衛邸の敷地売却とともに練馬へと移転を余儀なくされてからは、生徒数が徐々に減りつづけ、やがては経営危機を迎えることになる。
 では、次回は校舎の中にどのような教室が存在し、東京同文書院が教室として使っていたのはどのようなところなのか、あるいは近衛邸と目白中学校の再開発が、いつどこの開発会社によっておこなわれたのかを具体的に見ていきたい。

■写真上:1914年(大正3)に撮影された、東京同文書院としての集合写真。「民國三年」と、中華民国の年号が用いられているが、このころには背後の校舎は目白中学校として使用されていた。
■写真中:左は、明治末に発行された、東亜同文書院の会則冊子。1903年(明治36)改正「支部通則」が加わって入っているので、近衛篤麿が死去した直後に印刷・配布されたものだ。右は、同会則末に掲載された会員名簿の一部。すでに、近衛篤麿の名前が記されていない。
■写真下:地図は、「早稲田・新井1/10,000」に見る目白中学校の校舎と校庭。以下は、目白中学校の記録写真。②は目白通りから見た校舎。③は校庭で行われた軍事教練の様子。④は強かった野球部の記念写真。⑤は蹴球(サッカー)部の記念写真。運動場がかなり広く見えるので、目白中学の敷地ではないように思えるが、周囲は西洋館だらけなので目白・下落合界隈の公算が高い。⑥は校庭の片隅で撮られた応援団の記念写真。いずれも、大正中期ごろの写真。⑦⑧⑨は練馬へ移転した当初の目白中学。⑨の校門の看板を見ると、東京同文書院もそのまま一緒に引っ越していたのがわかる。下落合にあった校舎と形状が近似しているので、おそらく移築されたのだろう。