府中競馬場や中山競馬場の見晴らしのよい馬主席から、吉屋信子は最後のコーナーをまわる「モモタロウ」に声援を送っていた。彼女が競馬ファンだったのは、つとに有名だ。作家仲間の吉川英治に誘われて、馬券を買ったのがきっかけだったようだ。以前にも書いたけれど、信子はズバ抜けて“勘”が鋭かったようで、次々と馬券を当てる様子に吉川も舌を巻いたらしい。のちに、信子は5頭の競走馬の馬主にもなっている。
 馬主席には、信子と吉川ともうひとり、いつも競馬場で一緒になる作家がいた。1935年(昭和10)の12月に信子が引っ越しをするまで、同じ町内Click!に住む同士だった下落合の舟橋聖一Click!だ。彼女は、舟橋の持ち馬である「モモタロウ」を応援しながら、心のどこかで苦々しい思いを噛みしめていたに違いない。のちに、同棲していたC女史に「親不孝をした」と漏らしていることからも、信子は小学生のときから生涯消えない複雑な思いを抱えていた。
 1902年(明治35)に、吉屋一家は栃木県下都賀郡へと転居し、信子は地元の栃木第二小学校へ入学している。父親の吉屋雄一が、下都賀郡の郡長に任命されたことによる引っ越しだった。父親の転任が、いわゆる“火中の栗拾い”だったことに、子供の信子でさえもすぐに気づくことになる。当時、下都賀郡の足尾では、古河一族が経営する足尾銅山が鉱毒を渡良瀬川流域へとたれ流し、広大な土壌を取り返しがつかないほど汚染していた。いわゆる、足尾鉱毒事件だ。
 当時の首相である原敬は、古河財閥の全面的なバックアップをうけた政治家であり、原自身も古河の鉱業会社で最高顧問のポストに就いていた。だから、いくら足尾から政府へ悲惨な実情を訴えても、ほとんど対策がなされないまま無視に近いかたちで事態は推移する。だが、鉱毒汚染の被害は拡がり、いよいよなんらかの対策をとらざるをえなくなったとき、郡長に就任したのが信子の父、吉屋雄一だったのだ。政府側(古河側)と農民側の間に挟まり、足尾鉱毒事件のまっただ中に置かれた吉屋雄一は、地獄の辛酸をなめることになる。そして「谷中村事件」のとき、古河鉱業側の支配人だったのが舟橋聖一の母方の祖父である近藤陸三郎だった。
 
 吉屋郡長は村の中へ泊まりこみ、農民側の主張を吸い上げては政府への上申を繰り返していたようで、当時の一般的な郡長に比べれば非常にめずらしい存在だったようだ。被害者の農民側が、しばしば吉屋家を訪れていることでもそれがうかがえる。ある日、信子は吉屋家を訪れた、白い顎ひげを生やし箕笠姿の老人に、その節くれだった手で頭をゴシゴシなでられた。農民側代表の田中正造だった。戦後に書かれた、信子の『私の見た人』(朝日新聞社)の第1回目に田中正造を取り上げていることでも、いかにこのときの印象が強かったか、そして農民と政府(古河)との間の板ばさみになって苦悩する父親の姿が、いかに強烈な記憶として残っていたのかがわかる。だが、吉屋郡長による政府への上申はほとんどすべてが無視され、政府=古河側による強制執行が行われた。田中正造は、板ばさみになった郡長の姿を終始見ていたせいか、彼に対してほんのわずかながら「評価」の言葉を残している。大鹿卓の『谷中村事件』(新泉社)から引用してみよう。
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 下都賀郡長吉屋雄一がよほど狼狽の模様で自身谷中村へ出張してきた。部落の人々が呼び集められた。郡長が厳しい顔に似合わぬ細い声で陳謝の言葉をのべだした。(口先ばかりだ、そんなこって勘弁なるものか) 一瞬郡長はパチパチと瞬いたが(いや決して口先ばかりじゃない)というなり郡長は土間へ飛び下りて洋服の膝を折って土下座をした。(中略)
 正造は白いあごひげを微風になぶらせていたが、(いやしくも官吏たるものは責任観念が生命だ。だが彼が罪を罪として人の前にあやまったというのは今の役人に珍しい心情だ)---と云った。
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 信子と同棲していたC女史は、のちに取材に訪れた吉武輝子へ、競馬場からもどった彼女の言葉を伝えている。「父を苦しめた人の孫の馬に声援を送るなんて、親不孝もいいところだわ」。
 谷中湖(渡良瀬遊水地)を造るために、谷中村の農家13戸の取り壊し強制執行で終わった「谷中村事件」の中で、白く長い顎ひげにギョロリとした鋭い眼差しの田中正造の姿は、吉屋信子にとって終生忘れられない存在となった。

■写真上:戦後すぐのころ、信子は競馬場通いがこうじて奨められるまま5頭の馬主にもなった。
■写真中:左は、写真嫌いな信子がお気に入りの女性カメラマンに撮らせた、自身でも気に入っていたポートレート。右は、朝日新聞『私の見た人』の連載第1回に取り上げられた田中正造。
■写真下:緑地が造られる前、1974年(昭和49)の谷中村が没した谷中湖(渡良瀬遊水地)。