目白中学校のキャンパスの、詳細な様子を描いた平面図を入手した。戦災にも焼けずに残った、校内の様子を描いた貴重な資料だ。先の目白中学校アルバムClick!の記事で、写真の掲載をお許しいただいた保坂治朗氏が、廃棄されようとしている資料類の中から発見し、かろうじて保管をされてきたものだ。平面図は目白通り側から描かれており、南北が上下逆さまなのだけれど、各教室の広さや収容された生徒数までが詳しく記載されている。
 1教室あたり50名が定員で、合計850名もの生徒を収容することができたのがわかる。そして、目白中学の生徒とは別に、第一校舎(旧・東京同文書院本館)の1階には、「東京同文書院教室」と書かれた小さな教室が残っている。この平面図は、目白中学校の創設(1908年・明治42)からかなり時間が経過し、私立中学の中でも1、2位を争うぐらいの人気が出ていた、大正も半ばのころの姿ではないかと思われる。
 理化学教室や理化学実験室などの設備が充実している反面、芸術関連の教室は設置されていない。講堂(体育館)は存在しないが、「撃剣道場」という名の稽古場がキャンパスの東端に付属している。目白中学で教授されていたカリキュラムを髣髴とさせる、当時の学舎の構成だ。また、運動場のスペースはふたつに分かれていて、ひとつが第一校舎と第三校舎の南側にある1,500坪の広さ、もうひとつが第二校舎の東側にある450坪のスペースだから、当時の中学校のグラウンドにしては分割されているせいもありかなり狭い。武道など室内体育が盛んで、人気の野球部や蹴球(サッカー)部が十分に練習できなかったというエピソードが残っている。
 創立当初の明治末、目白中学校は尋常小学校の卒業生なら「無試験」で誰でも入ることができた。でも、ユニークな講師陣Click!をそろえ、野球部が中学野球大会(現・高校野球大会)で優勝を争うようになると、急速に人気が高まって入学希望者が殺到し、入学試験を実施するようになる。また、最盛期には入試に落ちた生徒を収容する、目白中学予科までが設置された。
  
 近衛家の財政が急速に逼迫し、目白中学校と東京同文書院の敷地を丸ごと手放すことになるのは、1925年(大正14)のこと。この区画も含め「近衛町(このえまち)」を開発し、住宅地あるいは商店地として売り出したのは東京土地住宅(株)、でもほどなく目白文化村Click!を開発した箱根土地(株)へ事業や販売が委託された。この間の事情については、また改めて詳しく書いてみたい。同年の11月13日付け「東京朝日新聞」に、箱根土地はさっそく販売広告を掲載している。
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 目白近衛町土地売却
 ◇省線目白駅に近く土地高燥眺望佳く樹木に富む地。六七十坪より数百坪迄数口売却す
 ◇瓦斯、水道、電気は既に敷設しあり目白駅より約三丁
 御希望の方は至急御申込相成度し
  目白文化村(本社) 箱根土地株式会社
   電話牛込 自三七五五 至三七五八
  丸ビル八階 丸ビル出張所
   電話牛込 四〇六五 四〇六六       (大正14年11月13日「東京朝日新聞」より)
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 広告によれば、すでに敷地を細分化して販売を開始していることになるが、目白中学校の移転先である練馬の、1926年(大正15)夏に行われた地鎮祭の写真が事実であれば(わたしはこちらが事実だと思う)、少なくとも当時の敷地上にはまだ校舎が建っていたことになる。つまり、地割りの図面をベースに販売していたということになるのだ。確かに、目白中学校のキャンパスには「瓦斯、水道、電気は既に敷設」されていたのだが・・・。この流れでいくと、実際に中学校敷地が更地となって住宅が建てられるようになるのは、翌1926年(大正15)の夏以降のこと。ただし、目白中学の跡地は、かなりあとあとまで“空き地”のままとなっていた。
 1925年(大正14)の練馬への移転説は、上記の生徒募集広告を見ても明らかにおかしい。なぜなら、1926年(大正15)2月11日の時点で、新入生を募集し入試開催を告知しているのは、練馬ではなく「東京府下目白」だからだ。
 箱根土地は、このとき旧・近衛邸の敷地を売り出すにあたり、目白文化村のような住宅街としての統一コンセプトを打ち出してはいない。当時は最大のライバルだった東京土地から、開発・販売途中でバトンをあわただしく渡された“他社事業”だったせいもあるかもしれないけれど、堤康次郎の関心は、もはや下落合の“小規模”な再開発よりも、国立駅の寄付Click!とともに国立の丸ごと新規街づくりのほうへと移っていたのだろう。箱根土地本社が、下落合の第一文化村脇から国立へと移転したのは、ちょうどこの「近衛町」販売のすぐあとのことだ。

■写真上:目白中学校のキャンパス平面図。描かれた時期は不明だが、東京同文書院の留学生用教室がきわめて小規模なことから、大正中期以降ではないかと思われる。
■写真中:左は、1908年(明治42)創立時の「東京朝日新聞」に掲載された生徒募集広告。中は、練馬移転の直前、1926年(大正15)2月11日に同紙に掲載された生徒募集広告。右は、Googleマップに重ねて見る目白中学校キャンパスの位置関係。当時は、目白工学校が併設されていた。
■写真下:箱根土地が「東京朝日新聞」に掲載した、「目白近衛町土地売却」広告。 
▲左は1936年(昭和11)、右は空襲直前の1944年(昭和19)の目白中学校跡地。