子供のころ、親父の仕事の関係から湘南海岸Click!で暮らしていたときのこと、音楽の授業で教科書に載っていない、地元の歌を数多く教わった。学校ばかりでなく、なにかの集まりや子供会のような催しでも、地元ならではの歌が唄われていた。中でも、鮮明に記憶に残っている歌が4曲ほどある。『かまくら』(1910年・明治43)と『七里ヶ浜の哀歌』(1910年・明治43)、『箱根山』(1901年・明治34)、そしてなぜか森鴎外の『横浜市歌』(1909年・明治42)だ。
 『かまくら』と『箱根山』の2曲は、かつて文部省唱歌に指定されていたので、おそらく“全国区”だろうが、『七里ヶ浜の哀歌<真白き富士の嶺>』をちゃんと唄える人に、神奈川県以外ではあまり出会ったことがない。
  ♪真白き富士の根 緑の江ノ島
  ♪仰ぎ見るも 今は涙
  ♪帰らぬ十二の 雄々しき御霊に
  ♪捧げまつる 胸と心
 まあ、悲しくてやりきれない歌なので、あまり唄われないせいもあるのだけれど、わたしが子供時代の周囲では『かまくら』と『七里ヶ浜の哀歌』がセットになって、ときどき唄われていた。2曲とも、あまり明るくないというか、『七里ヶ浜の哀歌』にいたっては“真っ暗”なのだけれど、意味がわからない歌詞だらけなのに、子供心にも美しいメロディーが身体に染みこんでいったようだ。
 1910年(明治43)1月23日(日)の昼すぎ、逗子開成中学校のボート部生徒11人と、部員の弟である逗子小学校生徒ひとりの計12人を乗せたボートは、氷雨が降る荒天の相模湾へと漕ぎ出した。正確な天気予報など当時は存在しないから、大型低気圧の急接近など知るよしもなかった。地元の消防団が止めるのも聞かず、怖いもの知らずで血気さかんな中学生たちは江ノ島へ向けて出航した。八丈島の南方を台風がゆっくりと通過するとき、いてもたってもいられず浮き足立つ、いまのサーファーのような感覚だったのかもしれない。ほどなく、七里ヶ浜沖でボートは転覆し、12人全員が溺死することになる。
 横須賀の海軍鎮守府からは、駆逐艦までが出動して捜索が行われ、やがて次々と遺体が引き上げられることになる。中でも、小学生の弟が兄にしがみついたままの徳田兄弟の遺体は、それが報道されると当時の人々に強烈な印象を残した。現在、七里ヶ浜の東端、稲村ヶ崎Click!に建立されている遭難碑の銅像は、この溺れゆく兄弟をモチーフにしている。
 
 時代は移ろい、十数年のちの下落合は近衛文麿邸Click!。近衛邸では、子供たちを養育するためにそれぞれ専属の乳母(ばあや)がつけられていた。長男・文隆Click!の乳母は竹内修(しゅう)といって、邸内では子供たちから「タッチ」と呼ばれ、特に気性が激しく厳格なばあやだったようだ。タッチは、明治期に来日したお雇いドイツ人の「日本人妻」となり、男の子をひとり出産している。その後、亭主のドイツ人はさっさと帰国してしまい、母子が日本に残されることになった。
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 タッチはこの頃四十歳前後で、不幸な過去を背負った人だと言われていた。文隆らにはそれがどんな不幸なのか、正確にはわからなかったが、まわりの者たちの断片的な噂話をまとめると、タッチの過去はおおむね次のようなものだったらしい。
 (中略)旦那がドイツに帰り、母ひとり子ひとりの境遇になった後、タッチはこの子の成長だけを楽しみに、身を粉にして働いた。子供は良く彼女の期待に応え、勉学に励んで、名門校のひとつ逗子開成中学に進学した。
 そしてボート部に入って青春を謳歌していたが、ある時突然、運命が暗転した。相模湾で練習中ボートが転覆し、仲間とともに溺死してしまった。  (西木正明『夢顔さんによろしく』より)
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 不思議なのは、遭難した犠牲者リストの中に、近衛邸で名乗っていた「竹内」という姓が存在しないことだ。ひょっとすると、ドイツ人が帰国したあとの一時期、子供を連れて再婚していたのかもしれない。もしそうだとすれば、どの子がそれに相当するのだろうか?
 近衛文隆を厳しく育てあげたばあやのタッチは、仕事の合い間に、あるいは子供にあまり手がかからなくなったころ、近衛邸のピアノに向かい片手でそっと、『七里ヶ浜の哀歌』を弾かなかっただろうか。その悲しげな旋律が、どこからともなく目白中学校Click!の教室へと、かすかに流れてきはしなかっただろうか?

■写真上:左は、荒天の七里ヶ浜。右は、下落合の近衛文麿邸跡あたり。
■写真下:左は、逗子開成中学校ボート部の遭難碑。右は、転覆したボートの生徒たちが目印にし、必死でその方角へ泳いだだろう稲村ヶ崎の突端。最近、海岸線の侵食がいちじるしい。