下落合の秋艸堂人こと会津八一Click!の歌に、法隆寺・夢殿の救世観音を詠んだ有名な作品がある。ちょうど下落合の秋艸堂Click!へ引っ越してきた直後ぐらい、1923年前後に何度か推敲され、完成した歌のようだ。
  あめつちにわれひとりゐてたつごとき このさびしさをきみはほほゑむ
 会津が斑鳩の里に寄せる想いは格別だったようで、いくつもの作品を残している。でも、早稲田大学の会津八一記念館Click!へ出かけると、驚愕してしまうものに出くわすことになる。最初は、法隆寺釈迦三尊像(光背)の拓本に驚いた。昨年までは公開されていたけれど、いまはどこかへ仕舞われてしまったようで非展示となっている。釈迦三尊像にベタベタ墨を塗ってる、尻はしょりした会津八一を想像してしまったのだけれど、これは会津の仕事ではなく、ギリシャ美術研究家・澤柳大五郎から記念館への寄贈品だとわかり、ほんの少し納得した。
 でも、納得できないのは上掲の写真。なっ、なんと、夢殿の秘仏・救世観音の頭部のマスクが展示されているのだ。これは、いったいどういうことだろう? 当時から国宝であり、法隆寺の中でも秘仏中の秘仏である救世観音の石膏型抜きのマスクを、なんで会津八一は持っているのだ? しかも、レプリカの仏頭模型じゃなくて、ホンモノから取った石膏型抜きですよ、これっ!
 1884年(明治17)、フェノロサが450mもの長い長い包帯で巻かれ、ミイラのように封印された呪いの救世観音を「発見」したのは有名な話だ。「絶対秘仏」の包帯が解かれようとするとき、一度も包帯の中身を見たことがない法隆寺の僧たちは、怖れおののいて残らず逃げ散ったといわれているぐらいだから、どれほどの長い時間、観音像は災いが起きないように結界の包帯でグルグル巻きにされていたのだろうか。救世観音が姿を現したあとも、「絶対秘仏」の呪縛は法隆寺についてまわっただろう。それなのに、どうして石膏型抜きなど存在するのだろうか?
 救世観音マスクの石膏型をとるには、あたりまえのことだけれど顔に粘土を貼りつけて型取りをしなければならない。顔には、当然のことながらナラ時代からの金箔が、そのままの状態で貼られているわけだ。そこへ、粘土をかぶせてしまってもいいのだろうか? もちろん、救世観音を立てたままでは仕事がやりにくいから、台座から外し、像を寝かせての作業だったように思われる。秘仏たちの公開や、展覧会への出品があたりまえとなった戦後の世の中ならともかく、この石膏像がとられたのはほぼ間違いなく戦前だ。それも、法隆寺で「絶対秘仏」だった救世観音の呪縛が解けてから、それほど時間がたっていないころのことではないか。
 
 もうひとつ、救世観音のマスクの隣りには、これまた国宝第1号、広隆寺の弥勒菩薩の頭部石膏型抜きが展示されている。・・・ただただ、唖然とするばかりだ。会津先生が、持てるコネを総動員して紹介状を何十通も用意し、「わしは下落合の会津だ、天下に聞こえた秋艸堂人じゃ。救世観音と弥勒菩薩のマスクが欲しくなったので、これから行くから石膏型を是が非でも取らせるのじゃ。わしが仕事しやすいように、像を寝かせて待っててね!」と、傲岸不遜に法隆寺と広隆寺へ申し込んだとしても、「おとついきやがれてんだ、べらぼー野郎め」と断わられてしまうのがオチだ。
 では、どうして国宝にダメージを与えかねない、マスクの石膏型抜きが存在するのだろうか? これはあくまでもわたしの想像だけれど、ある時期、寺々の財政が極度に逼迫したことはなかっただろうか? 明治の廃仏毀釈で、数多くの美術品や建築物が壊されて、焚き木にされてしまったエピソードはつとに有名だ。いまでこそ、「国宝」や「世界文化遺産」として観光の名所となっているけれど、明治期にはどこの寺でも、教部省(のち文部省)の役人がやってきて、いつ打(ぶ)ち壊されてもまったく不思議ではない状況だった。
 このサイトでも以前から、神田明神がらみで各地の明神、天神、権現、稲荷、弁天・・・等々の社(やしろ)へ、「神社(じんじゃ)」という妙なネーミングをほどこし、古来からの日本の神々へ勝手に位列をこしらえ、あろうことか奉神をあちこちいじりまわした明治の教部(文部)官僚たちの所業Click!を書いてきたけれど、寺院の受けたダメージはさらに輪をかけてもっと深刻だったのだ。今日では、おそらく国宝や重文に指定されたと思われる彫刻類や建築が、明治期に大量に破壊されている。もちろん、寺々の収入はほとんどなくなり、台所は火の車だったに違いない。
 
 いや、そんな昔のことではなく、戦時下でも似たような状況にみまわれはしなかっただろうか? 観光客が極端に減少し、国からの安定した援助も受けられなくなったとき、寺はなにを財源としたのだろう? そこに、美術研究者あるいは美術愛好家、好事家などを相手にした、寺宝の石膏型抜きをこしらえて少しずつ売りさばく・・・という、危うい妙案を思いついた誰かがいなかっただろうか? もちろん、通販カタログをこしらえ、おおっぴらにSP(セールスプロモーション)活動などはできないから、その分野の人たちの間へひそかに口コミで、販売ルートが確立されていった・・・。
 「センセ、いまなら笑顔がすごくアルカイックな子いるよ。もちろん、ウブ出しね」、「シャチョーさん、いい観音さんいるね、安くしとくよ」・・・といった具合に(^^;、救世観音や弥勒菩薩のマスクは売られていったのではないか。そして、会津八一のもとへも、そんな売買話が伝わってきたのだ。
 「ばっっかもん、この不埒もんが! 美術品をなんだと思ってるんじゃ! ・・・・・・で、ひとついくら? ・・・高い! わしは会津だ、まからんか!?」ということで、会津先生のもとに救世観音と弥勒菩薩の石膏型抜きが残ったのではないか・・・と空想するしだい。

■写真上:会津八一記念館に展示されている、夢殿・救世観音の石膏型抜き。
■写真中:左は、法隆寺夢殿。右は、本尊の観音菩薩立像(救世観音像)。
■写真下:左は、下落合時代の会津八一。右は、広隆寺・半跏思惟像(弥勒菩薩)の石膏型抜き。