以前、どうやらわたしは誤って描画ポイントを設定してしまい、議論が噴出してしまった「くの字カーブ」の道Click!だけれど、いままでの既成観念である二ノ坂からちょっと離れ、他の下落合の道筋はどうだろうか? マイケルさんやものたがひさんがおっしゃる通り、金山平三アトリエClick!が1926年(大正15)現在に二ノ坂上に建っていたとすると、この風景自体が成立しなくなってしまう。「くの字カーブ」のすぐ左手には、金山アトリエが見えていなければならない。
 余談だけれど、下落合2080番地の金山アトリエの隣りの敷地は、満谷国四郎Click!が購入しており、ふたり仲良く並んでアビラ村へアトリエを建てる予定だったのが、満谷の都合で下落合753番地、現在の野鳥の森公園の北側へアトリエを建てている。満谷が下落合2080番地へアトリエを建てていたら、1945年(昭和20)4月13日や5月26日の山手空襲Click!にも遭っていない区域なので、今日まで壊されずにそのまま残っていたかもしれない。
 急激に落込む、このようなバッケ(崖)状の斜面は、下落合のいたるところで見られるけれど、尾根上に「くの字カーブ」の道が通うところは、きわめて限られている。実は、二ノ坂のほかにもう1箇所、この風景とよく似た風情のポイントがあるのだ。でも、その場所は二ノ坂をはじめ、下落合に多い南に面した急斜面ではなく、ほぼ東を向いているめずらしい傾斜地だ。六天坂上にある、ギル邸のモッコウバラClick!が美しいわたしの大好きなN邸の北側、まさに旧ギル邸、のちの津軽邸敷地に面している「くの字カーブ」の道だ。この道は、六天坂の東側にある見晴坂にも通じている。そしてもうひとつ、新たに写真で発見した佐伯の「下落合風景」では、このポイントのすぐ近く、六天坂上を描いていた。こちらも、近々ご紹介したい。中ノ(野)道から六天坂へ、そして第一文化村のタンク近くへとつづく、佐伯のもうひとつの描画コースが少しずつ見えてきた。
 
 
 でも、ひとつやっかいな問題がある。この斜面は、いや斜面だったところは、十三間通り(新目白通り)建設により深く掘削されて、もはや斜面の体をなしていない。「くの字カーブ」の道から、北東側の市郎兵衛坂にかけて存在した傾斜地は、丸ごと道路に深くはぎ取られて、いまや垂直に切り立った5~8mほどの断崖絶壁となってしまっている。でも、1967年(昭和42)に道路ができる前の写真を見ると、東または北東へ向いた斜面に家々が建ち並んでいた様子がうかがえ、コンクリートでかためられた擁壁状の断崖絶壁は存在しない。通称“翠ヶ丘”と呼ばれた丘上の尾根筋に、「くの字カーブ」の道は通っている。
 この斜面は、第一文化村の弁天池Click!に発した小流れが、大正期から国の地図の誤採集により「不動谷」Click!と呼ばれてしまう第四文化村Click!の谷間へと下り、やがてはなだらかな傾斜沿いに妙正寺川へと注いでいた地形の一部を形成していた。現在でも十三間通りは、下落合駅あたりから山手通りとの交差点にかけて、ゆるやかな上り傾斜をしめしているのはその名残りだ。十三間通りから6mほど垂直に切り立った、コンクリートの擁壁に設置されている急階段をのぼると、そのすぐ上に「くの字カーブ」の道がある。道路が貫通する前は、市郎兵衛坂のある道を見下ろす尾根筋の道だった。落合尋常小学校(落一小)は、ちょうど反対側の丘上に位置している。
 
 わたしは何度となくこの道を歩いていたにもかかわらず、この「くの字」の道に気づかずにいた。十三間通りの貫通によって、周囲の地形や風景があまりに大きく変貌してしまっていた。改めて気づいたのは、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された空中写真を精査していたときだ。道のかたちばかりでなく、周囲の地形や風情も絵の光景に一致していることに気がついた。正面に見えているのは、下落合1756番地の大きな屋敷、右手の道端に草がしげる敷地は、すなわち下落合1752番地のギル邸そのものだ。また、左手の一段下がったようにも見える敷地は宇多川邸の地所、正面の大きな屋敷の右手は今井家の地所・・・という位置関係になる。
 ただし、ひとつ課題が残る。この『下落合風景』は、佐伯が描きかけのまま未完であったにしても、光源が明らかに左寄りにありそうなことだ。いや、どこか逆光めいた雰囲気にも感じられ、正面の大きな家が黒々と描かれている。そこで、ハタと気がついた。佐伯の「制作メモ」Click!に、「黒い家」というサブタイトルはなかったか? 1926年(大正15)9月18日に、「原」(20号)とともに描かれた同じく20号の作品だ。当日の東京の天候は、気象庁では“曇り”ということになっているが、薄曇りないしは雲が切れて薄日は射さなかっただろうか? 作品の空を見ると、確かに雲が多そうな空模様だ。そしてこの界隈は、1936年(昭和11)現在でさえ、原っぱばかりが拡がる風情だった。
 
 
 この「くの字カーブ」の道をそのまま右手へと進むと、やがて翠ヶ丘の南斜面に通う見晴坂へ、また作品の手前につづく道をそのままたどると、やがて同じ南斜面の六天坂へ、さらに画面の背後にあるやや下り傾斜のついた曲がり角を向かって右へ曲がると、第一文化村南端の水道タンクのあった一画、つまり同年の10月13日に描かれた「風のある日」Click!の描画ポイントの道へと抜けることができた。アビラ村の尾根上から市郎兵衛坂を経由するこの道は、さらに東進するとバッケ下の中ノ道へと合流し、やがて下落合の本村(聖母坂下あたり)へと抜けることができた。
 では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!へ、おそるおそるソッと加えてみよう。(笑)

■写真上:左は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。9月18日の「黒い家」のように思える。右は、「くの字カーブ」の道の現状。朝、出がけの撮影なので、朝日が右から射している。また、十三間通り側が垂直に切り立った擁壁になってしまったため、斜面の傾斜が補正されて地面が水平になってしまっているように思える。
■写真中上:左上は、「くの字カーブ」道のすぐ背後(北側)にあるコンクリートで覆われた断崖。十三間通りが貫通する前は、左手の市郎兵衛坂のあたりまで下り斜面がつづいていた。右上は、道路ができる前の翠ヶ丘の東北側斜面。家々がひな壇状に建ち並んでいる様子が見え、ちょうどこの正面の丘上に「くの字カーブ」がある。左下は1936年(昭和11)の陸軍による、右下は1947年(昭和22)の米軍による空中写真にみる「くの字カーブ」の道あたり。
■写真中下:左は、描かれた「くの字」部分の拡大。右は、現在は和風の門になっている同所。
■写真下:上左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。上右は、1938年(昭和13)の「1/750火保図/淀橋区No.81」にみる津軽義孝邸あたり。下左は、下に見える家々の屋根の拡大。下右は、いまも残るひな壇状になった南東側斜面。