以前、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズClick!の描画ポイントを特定しはじめたころ、第三文化村から「菊の湯」の煙突を描いた作品を取りあげたとき、大正末から昭和初期にかけて営業していた、下落合の銭湯をかたっぱしから調べたことがある。そのときからかなり時間がたち、画家たちの作品の中に下落合とその周辺の銭湯の煙突が、ずいぶん描かれていることがわかってきた。この際だから、ちょっとまとめてご紹介しよう。
 やはり、いちばん多く描いているのは佐伯作品だ。「曾宮さんの前」Click!と思われる、1926年9月20日の「下落合風景」を高解像度で入力したら、家々の背後に「福の湯」の煙突Click!が描かれているのがわかった。この時期の佐伯にしてはめずらしく、煙突の姿をリアルに描いてはいない。1本の細い線の上から、空へと立ちのぼる排煙が見える。(上掲の画像) 諏訪谷の南側崖淵から北西の方角を眺めると、高い建物のない当時は「福の湯」の煙突がよく見えたのだろう。いまのがっしりとした煙突とは異なり、大正期の「福の湯」煙突は細かったようだ。
 
 
 「福の湯」の煙突に対して、第三文化村から望んだ「菊の湯」の煙突Click!は、かなりリアルに描かれている。「菊の湯」は戦後、それほど長くは営業せずに廃業したようで、わたしは実際に一度も見たことがない。周囲が持ち家で内湯の府営住宅Click!と目白文化村では、なかなかお客が集まらなかったのではないか。もし、いまでも「菊の湯」が存在していたら、もっと煙突を高くするか、排煙の出ない給湯設備にするかしないと、山手通り沿いに建ち並んだマンションの上層階から、すぐにクレームがきてしまうだろう。
 佐伯が描いた中ノ(野)道の「草津温泉」Click!は、いまでも「ゆ~ザ中井」として健在だ。屋号を「草津温泉」としていたのは、戦前あるいは戦後すぐぐらいまでで、ほどなく屋号変更をしているのだろう。「草津温泉」の次が、「ゆ~ザ中井」になったのかどうかはさだかではない。ひとつふたつ異なる銭湯名で、営業をつづけてきたのかもしれない。
 
 
 佐伯の作品ではなく、同じく「下落合風景」を描いていた笠原吉太郎Click!の作品には、第一文化村の北外れにあった「萩の湯」の煙突Click!が登場している。わたしが学生時代に入ったことのある銭湯だが、少し前に廃業していまは存在しない。同じ作品の中には、長崎町(現・南長崎)にあった「久の湯」の前身とみられる、「仲の湯」の煙突も描かれている。こちらも、学生時代にはよく通った銭湯だが、「仲の湯」時代はさすがに知らない。残念ながら「久の湯」は、つい一昨年に廃業したばかり。キリスト教会の並びにあった、めずらしい風情の銭湯だった。
 
 一連の絵画作品ではないけれど、1930年(昭和5)ごろに撮影された写真に、目白通りの北側に張り出した下落合で営業していた「ときわ湯」の煙突Click!がとらえられている。写真の様子からみて、「ときわ湯」の煙突はそれほど高くはなかったのかもしれない。この銭湯も、わたしの記憶にはまったくないので、早くに廃業したのだろうか。
 1936年(昭和11)の空中写真を眺めていると、これら銭湯の煙突からモクモクと吐き出される排煙が写っていることが多い。いま、これだけの煙を出してしまったら、きっと近隣から苦情がくるだろう。当時は、おそらく薪や廃材、石炭などを焚いていたのだろうが、いまはなにを燃料としているのだろうか? やはり、重油が主体なのかもしれない。

■写真上:左は、1926年(大正15)9月20日に描かれたとみられる佐伯祐三「下落合風景」の「曾宮さんの前」(部分)。右は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の福の湯あたり。
■写真中上:左は、佐伯祐三による同年の「下落合風景」(部分)に描かれた、菊の湯(上)と草津温泉(下)の煙突。右は、「下落合事情明細図」にみる菊の湯(上)と草津温泉(下)の界隈。
■写真中下:左は、1928年(昭和3)ごろの笠原吉太郎「下落合風景」(部分)。右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」(上)と「長崎町事情明細図」(下)の萩の湯と仲の湯の界隈。
■写真下:左は、1930年(昭和5)ごろのときわ湯の煙突。右は、「下落合事情明細図」のときわ湯。