1954年(昭和29)2月26日、西武新宿線の下落合駅へ慌てふためいた若い女性が駆けこんできて、震える手で財布を開きながら窓口で切符を求めた。駅員はかなり不審に思っただろうが、あえて呼び止めて事情を訊くなどはしていない。女性の名前は亀井よし子、年齢は当時21歳だった。
 彼女は、世田谷にあった弁護士・松本善明邸で住み込みの女中をしていた。同日の午前中、近くへ買い物に出たとき3人の男たちにいきなりクルマへ押しこまれ、そのまま下落合駅近くのどこかの家へ拉致された。当時、松本邸では、異常な“事件”がつづいていた。邸に泥棒が入り、金品ではなく松本弁護士の手紙だけが盗まれた。また、松本自身はもちろん、妻の画家・いわさきちひろにも尾行がついて、執拗にふたりの行動が監視されている。このとき、松本弁護士は最高裁まで持ちこまれた、「松川事件」の弁護団の一員として活動していた。「松川事件」については、「三鷹事件」と並ぶ戦後に起きた代表的な冤罪事件として知られており、広津和郎をはじめ武者小路実篤、志賀直哉、川端康成、松本清張、吉川英治など数多くの文章が残されているので参照されたい。最後には、被告たちのアリバイ成立と証拠品の隠蔽までが明らかにされ、被告全員が無罪となった。
 最高裁の無罪判決が下りる前、亀井よし子は何者かの手によって誘拐され、彼らのアジトで松本弁護士の交友関係について執拗に恫喝・尋問されている。翌日、見張りがひとりになったところをかろうじて脱出し、最寄りの下落合駅へと逃げ出してきた。彼女は、あえて警察へは通報せず、そのまま世田谷の松本邸へと逃げ帰っていることからも、この誘拐した3人の男たちの素性に彼女が大きな疑念を抱いていたのがわかる。亀井よし子は、そのすぐあとに松本邸を辞めているが、約1ヵ月後に大阪府弘済病院で残されたカルテによれば「麻薬中毒」により死亡している。解剖もなされず、息を引き取った翌日には火葬にされてしまった。また、彼女の主治医で「麻薬中毒」カルテを作成した植村医師は、このあと病院の開かないはずの窓から、なぜか転落して「変死」している。
 不気味な男たちがアジトに使った、下落合駅付近の家がどこにあったのか捜索されたけれど、必死に走って逃げた亀井よし子の記憶が曖昧なため、結局はわからずじまいだった。
  
 「松川事件」がらみの怪事件に先立つ6年前、1948年(昭和23)1月19日、下落合の西武電気鉄道(西武新宿線)中井駅の北、下落合4丁目2080番地にあった三菱銀行中井支店に、東京都の腕章をした男が現れ「厚生省技官医学博士/東京都防疫官/山口二郎」の名刺を差し出した。男はGHQの名前を出し、「下落合の井華鉱業落合寮」で集団赤痢が発生し、そのうちのひとりが中井支店に立ち寄っているので、人や現金、為替、手形などすべてを消毒しなければならないと支店長に告げた。おそらく、支店長が疑わしい態度で応接したせいか、男は為替1枚を無色透明な液体で「消毒」しただけで立ち去っている。実害がなかったため、三菱銀行中井支店はこの男のことを警察へとどけなかった。
 ところが、わずか7日後の1月26日、武蔵野鉄道線(西武池袋線)椎名町駅前の帝国銀行椎名町支店へ、「防疫班」の腕章をした男が現れ、やはり近所で集団赤痢が発生し患者のひとりが同支店に立ち寄っているので、店内すべてを消毒しなければならないと告げた。そして、消毒班が到着する前に赤痢の「予防薬」を、行員14人とその家族2人に配って飲ませた。これにより10人がほぼ即死し、2人が搬送先の国際聖母病院Click!で死亡、4人が重症で入院することになる。いわゆる「帝銀事件」だ。下落合の聖母病院では、次々と運び込まれる犠牲者への手当てで大混乱をきたしていた。当初は食中毒が疑われたが、すぐに薬物の中毒であることがわかる。ただし、用いられた毒薬の種類が特定できず、患者の胃洗浄を繰り返すだけで、すぐには積極的な治療ができなかったのだ。
 
 松本清張が“日本の黒い霧”と名づけた、戦後を代表する不可解な事件のふたつまでが、なんらかのかたちで下落合を舞台にしている。特に、下落合駅付近にあったとみられる亀井よし子の誘拐・拉致事件のアジトは、いまもってまったく謎のままだ。

■写真上:左は、亀井よし子が駆け込んだ昭和30年前後の下落合駅。右は、現在の同駅。
■写真中:左は、彼女が背後を気にしながら切符を買った下落合駅の窓口。右は、1949年(昭和24)8月17日に福島県松川町で発生した、東北本線の「松川事件」現場。
■写真下:左は、昭和30年前後と思われる中井駅。箱根土地が早大へ設計を依頼した駅舎と、手前の駅前広場の様子がよくわかる。右は、椎名町駅前の「帝銀事件」現場。