1930年協会のメンバーのひとりだった、小島善太郎が1913年(大正2)に描いた目白駅近くの風景だ。タイトルも、そのままズバリ『目白駅より高田馬場望む』。目白駅の学習院側、下落合と高田とを結ぶ山手線のガードClick!へとくだっていく、なだらかな坂道を描いたもの。左手に見えている樹木と木冊が、すでに学習院の敷地となっている。新宿・淀橋がふるさとの小島が、21歳のときに制作したもので油彩ではなく水彩による小品だ。この作品から19年後、描かれている線路上で目白・下落合界隈では未曾有の、大きな列車事故が起きることになる。
 以前、下落合と「帝銀事件」あるいは「松川事件」との関わりを書いたClick!けれど、戦前にも下落合ではいろいろな事件が起きている。1928年(昭和3)9月10日、現在のピーコック横の交番から、捕まえた泥棒を戸塚警察署まで護送していた巡査が、急に暴れだした容疑者に拳銃を奪われて★殺害され、東京市街地へ逃げた犯人により巡査と民間人1名が重傷を負うというショッキングな事件があった。「報知新聞」にいう、いわゆる“ピス平”(ピストル一平)事件だ。七曲坂を登りきったところ、当時のミツワ石鹸Click!の三輪邸前、現在の落合中学校のグラウンドに接した路上でのことだっだ。殉職した渡辺巡査は胸像が作られ、戦前まで戸塚警察署に置かれていたそうだ。
★当時の巡査はサーベルのみ所持し、拳銃で武装はしていなかったという古老の方からのご指摘により、詳細に同事件を調べてみるとご指摘のとおり、拳銃は犯人が隠し持っていたことが判明Click!した。また、小平一平は窃盗容疑ではなく、当初から不審者として訊問されていることもわかった。
 また、第一文化村の北側、第二府営住宅Click!の1軒へ「説教強盗」が入り、泥棒に入られやすい家の造りや戸締りのしかたを解説して、「以後、気をつけて犬を飼いなさい」と去っていった話は、当時の新聞にも大きく取り上げられたので、全国的に有名になってしまった。ほどなく、「説教強盗」の仕事場は淀橋あたりに移り、そちらへ連続して出没していたようだ。
 そして、山手線の列車事故は、1932年(昭和7)3月4日の午後9時すぎの夜陰に起きた。この日、赤羽経由の団体列車を見送るために、下落合から目白駅あたりにかけての山手線の土手上には、大勢の人々が旗ざおなどを手に集まっていた。中には、線路まで立ち入る人たちもいたらしく、犠牲者のほとんどが当時は単線だった貨物線路上にいたと思われる。この団体列車だけれど、見送る人たちの多くが下落合や高田町の工員だったことから、当時は盛んだった労働運動に関係する集会が東京で開かれ、それに出席するために上京した団体が乗っていた可能性がありそうだ。見送る人たちが手にした旗ざおには、赤旗がひるがえっていなかっただろうか?
 
 この日、午後9時ごろまでに、落合町側と高田町側の双方から、仕事を終えた工員たちが山手線の線路沿いに集まった。夜間だったので、より近くから見送ろうとしたのか、多くの人は次々と土手上にのぼり、3本の線路の両側にぎっしりと並んで、特別チャーターの団体旅行列車が通過するのを待っていた。9時12分ごろ、内回りの線路を団体旅行列車が通過し、人々はなにか叫んだり、手や旗を振ったりしたのだろう。悲劇は、その直後に起きた。 
 人々は、団体列車を見送るのに夢中で、1932年(昭和7)当時はいまだ単線だった貨物線に迫っている、品川発田端行きの貨物783号列車に気づくのが遅れた。高田町側の土手上に並んで見送った人たちは、貨物列車の接近に気づいて線路から離れたが、反対の下落合側にいた人たちは内回り線路を団体列車が通過するのに邪魔されて、貨物線の様子が見えなかったらしい。下落合側の群集は団体列車が通過したあと、その後部へまわり込むようにして内回りの線路を東へはみ出したとたん、貨物列車に轢かれてしまったのだ。
 この事故で6人が死亡し、重軽傷者も出ている。犠牲者は、下落合23番地の「指田製綿工場」のそれぞれ22歳、18歳、17歳、16歳の工員4名と、指田工場の三男で17歳の独協中学3年生、そして戸塚町161番地のキング自動車商会に勤める25歳の運転手の、計6名だった。指田製綿工場は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」では指田工場、1925年(大正14)初頭の「商工地図」では指田衛生材料工場と記載されているので、おそらく医療品の脱脂綿を製造する工場だったと思われる。ちょうど、十三間通り(新目白通り)の山手線ガード近くにあるセブンイレブン裏の下落合23~35番地あたりに、指田製綿工場は建っていた。
 
 犠牲者の中で、工員たちに混じって経営者の三男である17歳の中学生がいるのに、なにかしら強いドラマ性を感じる。もし、この団体列車の見送りが東京で開かれる労働運動の集会に関連するものだったとすれば、この中学生は工員たちに共感して参加したのであり、経営者である父親とは日ごろから鋭く対立していたのではないだろうか。工員たちが開く、職場の読書会にも日ごろから参加していた彼は、家族が制止するのもきかずに、夜遅く工員たちとともに山手線の線路上に立っていて、予期しない惨事に巻き込まれた・・・、そんな正義感に燃えた少年像が思い浮かぶのだ。
※その後、この事件の詳細が判明している。青少年たちが線路際に旗を持って集合していたのは、労働運動とはまったく関係がなく、「爆弾三勇士」に関連した軍用列車Click!の歓迎だったようだ。

■写真上:左は、小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』(1913年・大正2)。右は、坂道の現状。
■写真中:左は、事故当時の模様。右は、学習院昭和寮の空中写真の右上隅に、偶然とらえられた事故現場あたりの3本の線路。事故は、目白駅と高田馬場駅の中間で起きた。
■写真下:左は1925年(大正14)「商工地図」で、右は1926年(大正15)「下落合事情明細図」。