明らかに下落合の風景を描いた鈴木誠の作品を、いまだ見つけることができない。風景画家ではなく、どちらかというと人物描写を得意とした画家だからだろう。でも、佐伯祐三と連れ立って、長崎町界隈へも写生に出かけているようだから、下落合界隈をまったく描かなかったとは決して断定できない。現存する作品の中には、なんとなく下落合の眺めを背景に配したような作品を、何点か見つけることができる。
 上の作品は、1942年(昭和17)に描かれた『朝』と題する作品だ。この絵の背景にも、下落合ではまま見られる谷戸のような小さい谷間が描かれている。1942年というと、前年の暮れに真珠湾攻撃が行われ、対米戦争へと突入した翌年にあたる。同年に開催された、新制作派協会の第七回展に出品されたうちの1作だ。手前の子供ふたりが手にしているのは、「国旗掲揚」するポールのロープだろう。早朝に近所の人たちが集まって、「国威発揚」のこのような行事が毎朝、実際に下落合のどこかで行われていたのだろうか?
 背後の緑は、鈴木アトリエの前にあった林泉園の谷間か、あるいは落合第一小学校前の谷間か、特定はまったく不可能だけれど、このような谷間の淵に「国旗掲揚」台があった場所を、わたしはかつて聞いたことがない。鈴木誠による、再構成された画面創作の公算が高いように思う。人物はアトリエなどで別に描写し、背景は外で風景を眺めながら写生し、あとで双方のスケッチを合成して仕上げたように感じられる。
 それにしても、この絵には奇妙な点がたくさんある。まず、「国旗掲揚」している左側の女の子。どう見ても、日本人には見えないのだ。いや、強いていうなら茶髪の、まるで現代の女の子のようだ。なんとなく、そのコスチュームといい欧米人の女の子の雰囲気が漂う。この作品が、太平洋戦争の前だったらまだわからないこともないけれど(でも「国旗掲揚」シーンに外国人というのも妙なシチュエーションだが)、欧米との戦争に突入した翌年に描かれているのが不思議だ。
 さらに不可解なのは、背後に並んだ人たちの様子。朝早く、ご近所から「国旗掲揚」に集まった人たちなのだろうが、これがまったく無気力で“やる気”がぜんぜんない。揚がりつつある「日の丸」など見ず、全員がソッポを向いている。割烹着を着た主婦のひとりなど、「この忙しいのに、冗談じゃないわよ」・・・と背中を見せていまにも帰りそうだ。旗を見あげている人間がひとりもおらず、全員があらぬ方角を向いている・・・というのは、いったいどういう状況なのだろう。
 新制作派の第七回展に展示され、記念絵はがきにもなった作品なのだけれど、よく軍当局の検閲をまぬがれたものだ。この作品ひとつを例に、鈴木誠は戦争画などまったく描きたくなかったのだ・・・と結論するのはたやすい。
 
 もうひとつ、東京国立近代美術館に米国から「無期限貸与」というかたちで返還された、鈴木誠が1945年(昭和20)に描いた『皇土防衛の軍民防空陣』がある。絵の中心で町内会の防空役員とおぼしき鉄カブト姿の男が、「タイヒーッ!」と叫んでいるのか、あるいは防火ハタキClick!とバケツリレーを指揮しているのか、なにか大声をあげている。その周囲を、人々が消火作業をしたり防空壕へ急いだりしている。
 余談だけれど、東日本橋界隈が東京大空襲Click!で焼かれたとき、それでも住民たちはナパーム焼夷弾をなんとか消火しようと試みている。まったくムダな作業となるのだけれど、本所区や深川区と日本橋区Click!が大きく異なるのは、避難路を断つために四方を火で囲むような、明らかにジェノサイドを目的としたB29の爆撃を受けていなかった点だ。だから、消火作業を諦めてから逃げても、逃げ遅れて焼死する確率が本所や深川よりも少しばかり低かった。このとき、普段から防空演習になると威張りちらしていた町内会の防空役員は、「タイヒーッ!」と叫んで真っ先に防空壕へと飛びこみ、あとから消火作業をつづけていた住民たちに吊るし上げをくらったエピソードが残っている。寺と墓を放り出して、「ふるさと」へさっさと疎開した(逃げてった)坊主Click!たちとともに、下町はこのテの筋の通らない人間には、あとあとまできわめて手きびしい。
 『皇土防衛の軍民防空陣』にも、防火ハタキを持ちバケツリレーをする女性たちが描かれている。そして、この絵も実際に空襲を目前にしてスケッチしたものではなく、鈴木誠が構成した創作画面だ。ここに描かれているモデルたちは、すべて下落合にある鈴木誠アトリエの近所の人たちばかり。住民たちにお願いして、アトリエでいろいろなポーズをとってもらい、どうやら近所じゅうを巻きこんで、なかば楽しみながら描いたようなのだ。藤田などが描いた緊迫感と悲壮感、そして血なまぐささと死臭が漂う作品とは、かなり異なる“戦争画”には違いない。
 『朝』といい『皇土防衛の軍民防空陣』といい、絵の具や画布の配給を止められ前線へ召集されてしまうのを避けるために、軍部への協力ポーズは示しつつも、消極的ながら皮肉な「国威発揚」や厭戦感を漂わせた作品を残していった・・・、それが1931年(昭和6)に発行された『美術新論-座談会号-』9月号で、「戦時は繪の価値より鉄砲の価値の方が一時は優れて居るやうに思はれるが、恒久的の価値ではない」と発言する、鈴木誠の軍部へのせめてもの抵抗だったのだろう。

■写真上:1942年(昭和17)に描かれた鈴木誠『朝』。背景は、下落合の谷戸のひとつに見える。
■写真下:左は、1945年(昭和20)の鈴木誠『皇土防衛の軍民防空陣』。ほぼ全員が、当時の下落合に住んでいたご近所のみなさん。右は、1931年(昭和6)ごろのポートレート。