SSブログ

大正期の東京が匂う曾宮一念『東京回顧』。 [気になる本]

 1967年(昭和42)に出版された曾宮一念の『東京回顧』(創文社)は、東京の下町界隈の様子が画家の目を通して細かく描かれていて、同じく東日本橋にあった「いろは牛肉店」の洋画家・木村荘八Click!の著作とともに、わたしにとってはとても楽しい本だ。曾宮は、日本橋産まれの霊岸島育ち。創文社は校正部が弱かったのか、そこかしこに誤字や脱字があるのだけれど、つい惹き込まれて読んでしまうのは、彼の文章が味わい深くて秀逸だからだろう。
 曾宮一念の作風は、中村彝Click!に兄事していたころとは異なり、戦後は大きく変わった。特に山を描くことが多くなり、娘の曾宮夕見様Click!らとともに山を歩いたり、山麓のエッセイを雑誌へ連載したりした。本書の巻頭にも、油彩作品の『八ヶ岳夕雲』が収録されている。黒々とした描線が、まるで書のような勢いをもつようになり、彩色もいたって淡白になった。また、油絵を描くことが少なくなり、水彩や素描が増えている。これは、彼の緑内障が悪化したことと、深く関係しているのかもしれない。のちに、画家にとっては美の窓口ともいえる視力を失うことになる。
 曾宮は、明治末~大正期の江戸っ子らしく、幕末~明治期の三田村鳶魚と同様に「江戸前」の規定や記述にこだわっている。きっとふたりとも、食いもんにもうるさかったにちがいない。
  
 江戸前という語を近年は江戸伝来とか、東京仕込みとかの意味に使う。けれども本来の意味は江戸のスグ前つまり、芝なら芝浦から品川台場へん、京橋なら隅田川口からせいぜい浦安へんでとれた魚のことであった。私は通な料亭のことは知らないが霊岸島では夕河岸を養母と永代橋際へ買いに行った。西日を帆に受け、又は日が暮れてから小舟が品川や浦安から着くのをその場で買う。昼には首に瘤のあるボテフリ(略してボテ)が来た。(中略)
 明治に有って今無くなった物は多い。ほんの一、二を挙げると正月の餅は白の他に粟餅、所によって黍餅をついた。近年粟、黍、餌胡麻、麻の実は米より高くなった。明治四十年から大正初年まで東京至る所粟餅(粟の牡丹餅)の店が赤暖簾を張った。それがいっせいに消えた。嗜好の移りよりも粟を作らなくなったからからであろう。
  ●
 この「江戸前」の概念は、今日の農水省が東京湾で獲れた魚に規定する「江戸前」とほぼ同様で、おもに大正期の概念を踏襲している。明治前半の「江戸前」=うなぎ、あるいは三田村鳶魚が記録しているように江戸時代の「江戸前」=御城下町=下町Click!という概念よりは、およそ50~60年ほど時代がくだった解釈だ。
 
 また、東京を離れて静岡県の富士宮市へ移住してしまった彼には、たやすく手に入らなくなってしまったのかもしれないけれど、お正月に白餅のほか、粟餅や黍餅、餌胡麻餅を食べる習慣は、わが家ではずっとつづいていた。江戸の昔と変わらず、いまでもこれらの餅はなくなってはいない。健康ブームが高まる中、むしろスーパーや生協の注文リストにも、これらの雑穀餅を見かける機会が多くなった。特に粟餅に黍餅、玄米餅などは付け焼きにすると香ばしく美味しいので、わが家の正月には欠かせない食材となっている。
 さらに、明治末の東京郊外の様子を、こんなふうに書いている。きっと、当時の多くの画学生がそうしたように、曾宮もスケッチブック片手に郊外を歩きまわったのだろう。
  
 樹木で最も武蔵野を思わせた欅の大木はこれも名物のからっ風が吹くと高い枯れた梢が大きく揺れて冬空を箒で掃いているように見えた。一般に武蔵野と思われた地域は山手線の外側の田畑と林をいうようで、大正初年まだは山手線の内側にも面影はしのばれた。早稲田田圃の稲穂を踏みわけてコトンコトンと廻る水車を描き、面影橋下の水を水彩用に掬った。鬼子母神の銀杏の黄葉を描き、尾花の木菟を買った。(中略)
 東京郊外には幾つも野川があり、たずねると湧泉がある。井之頭も涸れそうだが、石神井、三宝寺の池、それらが上水になり、染物用になったりした。私の住んだ落合は二つの川の合流点が地名になった。この川筋は立派な歩く公園としてお茶の水までできるのに今は臭くて川に近寄れない。隅田川は更に東京風景を締めくくる大物なのに金物までサビるひどさだという。
  
 この「臭くて川に近寄れない」というのが、わたしが物心つくころの隅田川や神田川の姿だ。ちょうど同書が出版された時期、1960年代後半はその汚染がピークClick!に達していた。当時に比べたら、鮎が見られる神田川の現状Click!が、にわかに信じられないくらいだ。あのころ、東京オリンピックの前後あたりから、東京はどこか壊れていったのだろう。

 『東京回顧』は、曾宮一念がすごした明治末から戦前にかけての、東京の風情が活写されていて面白い。妙に“通人”ぶっていない記述もよく、人生の大半をすごしたふるさと東京の想い出を、淡々と記述している。もちろん、画家仲間との交流も書かれているけれど、このエッセイが書かれた時点で70歳を超えていた彼の筆致は、熱すぎず冷たすぎず、少しばかり突き放したクールな味わいに満ちている。曾宮はこのあと、眼疾が悪化したとはいえ90歳すぎまで健在だった。

■写真上:曾宮一念『東京回顧』(創文社)の表紙装丁。
■写真中は、1967年(昭和42)作と思われる『八ヶ岳夕雲』。は、73歳の自画像マンガ。
■写真下:1922年(大正11)に撮影された、曾宮一念とその仲間たち。左から、牧野虎雄、熊岡美彦、鈴木良三、油屋達、吉村芳松、曾宮一念、高間惣七、横山精一、大久保作次郎。目白・下落合界隈では、お馴染みの顔ぶれが見える。


読んだ!(4)  コメント(3)  トラックバック(5) 
共通テーマ:

読んだ! 4

コメント 3

ChinchikoPapa

takagakiさん、いつもありがとうございます!<(__)>
by ChinchikoPapa (2007-08-13 15:01) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-11-21 22:26) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-30 17:39) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 5

トラックバックの受付は締め切りました