中村彝の死亡直後に撮影され、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載されたアトリエ西側をとらえた写真に、妙なものが写りこんでいる。画室のドア表面に描かれた、一見、模様のように見える数多くのイラストだ。ドアの壁枠から縁にいたるまで、なにやら細かな絵が全面に描かれている。そして、ドアの下から7分の1ぐらいのところで、突然、ペインティングは中断され、描きかけのまま放置されているようだ。
 アトリエ西側の壁面を撮影した、より鮮やかで精細な記録写真を、ある方がコピーしてくださった。以前にご紹介した画像Click!より、はるかに鮮明に画室内がとらえられている。壁に立てかけられた額縁の模様まで、はっきりとわかる鮮明さだ。この画像をもとに、岡崎きいの部屋から玄関へと通じる西側のこのドアを、もう一度検証してみよう。
 中村彝Click!は、いったいこのドアになにを描いていたのだろうか? 彝がドアに絵を描いた記録は、中村春二の息子である中村秋一Click!が証言している。アトリエのドアには、女性のポートレートが描かれていたというが、この女性が誰なのかはわからない。岡崎きいが入院中、彝が新聞に出した家政婦募集の広告を見てやってきた、ヴァイオリン好きな太田たきなのか、彝が結婚まで思いつめた太田たきの妹か、それとも相馬俊子の面影なのかは不明だ。でも、この写真に写っているドアの絵は、どうやら女性の肖像ではない。
 
 写真を拡大してみると、一面に描かれた絵の形状がわかる。まず、彜はドアの色からして変えようとしていた。もともと、灰色にベージュを混ぜたような色合いで塗られていたと思われるドアだが、それは腰高の板壁との統一カラーになっていたのだろう。ところが、ドアの画像を拡大すると、ベースの色を別の濃い色で塗り替えてしまっているのがわかる。その濃いめの背景色の上に、なにやら上部が三角形の、まるでホームベースのようなかたちをしたものを描いている。
 この形状をもとに、彝の作品から同じようなフォルムのモチーフを探すと、すぐにキリスト教会の祭壇などへ飾られる、特異なかたちをしたパネルが思い浮かぶ。死の前年に描かれた、『カルピスの包み紙のある静物』(1923年)の背後にも置かれた、彜手づくりの十字架パネルClick!だ。でも、キリスト教の十字架パネルはタテに長いはずなのだが、この絵は途中で断ち切られたように短い。なんとなく、濃い森の中に点在する尖がり屋根のバンガロー群のようにも見えるのだが、彜はそのような絵を描きそうもない。ぼんやり見ていると、顔半分に濃い髭をたくわえた男の顔のようにも見えてくるが、それもおそらく違うだろう。晩年に、グレコが描くキリスト像を身近に置いていたという先入観から、そんなイメージに見えてしまうのかもしれない。
 もうひとつ特徴的なのは、ドアの上部から下部にくるにしたがって、なにかのかたちがやや大きく鮮明になってきつつあるように感じる点だ。上部では、やや小さくて曖昧だったかたちが、少しずつはっきりとした形状へと変化しているように見える。この印象を踏まえるならば、遠くのものが近くへと寄ってきている、あるいはなにかが徐々に姿を現しているようにも思えるのだ。
 
 彝がドアに絵を描いたのは、1923年(大正12)の夏から、1924年(大正13)の12月24日に亡くなるまでの約1年間の、いずれかの時期だと推測できる。なぜなら、1923年(大正12)5月に開かれた園遊会とほぼ同時期に撮影されたと思われるポートレート、『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)にも収録されたストーブ前の肖像写真に、たまたま当の西側のドアが写りこんでいるが、ドアにはいまだなにも描かれてはいないからだ。また、関東大震災Click!でアトリエの壁が落ちた、1923年(大正12)の秋から冬にかけても、ドアになにかを描いたとは考えにくい。アトリエは、全体が補修中の状態だったろう。つまり、このドアペインティングは1923年(大正13)末か、翌1924年(大正14)の初めから、同年の12月24日に彝が死亡するまでの間の、ほぼ1年間のどこかで描かれたものだと推定できる。そして、ドアの下部で仕事を中断しているのは、体力的につづかなくなっていったものか、あるいは12月24日を迎えてしまったかのいずれかだろう。
 彜は、わざわざドアを外してこの絵を描いてはいない。ドアを外して描いたなら、描き終わるまでドアは元へもどさないはずだ。ドアの上部は、おそらく台かイスに乗って、ドアの下部はイスに座りながら描いたのだろう。つらい身体を押して、そうまでして描き切りたかったモチーフとは、いったいなんだろうか? さらに、この西側のドアは、現在のアトリエのどのドアに相当するのだろう。これだけ絵がクッキリと描かれていれば、いくらペンキで上塗りされてはいても、X線撮影をすればはっきりと浮かび上がってくるに違いない。
 
 ちょっと気になるのは、このドアがどちら側に開いたかということ。おそらく廊下側、つまり岡崎きいのいる部屋のほうへ開いたと思うのだけれど、もし画室側に開くドアだとしたらかなり危ない。岡崎きいがノックをせず、いきなり入ってきたりすると、彜は踏み台にしているイスごと飛ばされてしまうか、あるいは頭をドアで思いっきりゴンッと打ってしまっただろう。
 それにしても、このドアに描かれた絵についての証言を、わたしはいまだ見つけられないでいる。いったい、これはなんだろう?

■写真上:なにかがたくさん描かれている、アトリエ西側のドアの拡大画像。
■写真中上:ドアの拡大写真いろいろ。模様のように見える五角形の絵が、ドア一面に見える。
■写真中下:左は、ドア下部を拡大したもの。仕事を突然中断したかのように、未完のままとなっている。右は、いまもそのまま残るアトリエ西側のドア枠だが、絵の痕跡は見あたらない。
■写真下:左は、アトリエ前で1917年(大正6)ごろに撮られた、めずらしいガウン姿の中村彜。右は、大正13年12月24日午後2時10分に落合局で受け付けられた、「ナカムラツネイマシス」電報。発信したのはおそらく鶴田吾郎、受信したのは早稲田局近くの若松町に住む野田半三だ。